九 添い伏し

翌月の一日、万寿の君は元服し、源頼家となった。続いて、家臣の屋敷への初のお渡りの儀がある。江間の新邸へ徒歩で渡られた。乳母夫の比企能員ら、その子息らが付き添ってきた。

「この度はご元服御目出度う御座います」

コシロ兄と金剛と揃って頭を下げ、挨拶をする。

 お渡りに際して、先方から下げ渡しがあり、対してこちらから祝いの品を贈る。それらの遣り取りが終わった後に宴となる。最初は皆少し緊張していたが、酒が振舞われる内に場も解ける。


「時に、今宵はこちらに泊まらせて貰おうと思う」

 唐突な頼家の言葉にヒメコは驚いて言葉を失った。

「酉の刻にお帰りの予定と伺っておりましたが」

コシロ兄が冷静に返す。

「左様ですぞ。若君、いや、若殿。今宵は当方の屋敷にて宴を準備をしておりますれば、そろそろ上がりましょう」

比企能員が慌てた口調で後を継ぐ。だが、頼家は首を横に振った。

「私は添い臥しは姫御前でと言うた筈。何ゆえ約束を違える?」

——添い伏し?

「そのような話は聞いておりませぬ」

コシロ兄が答えてくれる。

「能員、どういうことだ?」

頼家が比企能員に迫るのをヒメコは呆然と見ていた。

「それは将軍様のご意向とは違うように思われます。将軍様は、ご嫡流に源氏の姫君を正室とお定めになられた筈。添い臥し役もその方であるべきでしょう」

 コシロ兄の低い声に頼家が眉を上げる。

「江間義時、何を言っておる?私は正室に、この比企能員の娘を定めるつもりだが」


コシロ兄が比企能員をチラと見た。

「比企殿、これは一体どういう事でしょうか?私が将軍様よりお聞きした内容と随分違っております。早速御所へ参内して真偽を確かめさせていただいても宜しいか?」

コシロ兄は低い声でそう問うと立ち上がった。途端、比企能員がドン!と床を叩き、顔を赤くして叫ぶ。

「待て!頼家殿という客人を置いて出掛けるおつもりか?」

それから頼家をチラと見た後にヒメコに向かって怒鳴った。

「わ、若殿は姫御前に添い臥しを願うておられるのだ!まずそれに答えよ!」

コシロ兄がヒメコを見ながら口を開いた。

「饗応とは、家臣が出来る範囲で最大のもてなしをし、君主がそれを礼を持って受けること。そう理解している。過去、将軍様は数々の饗応を受け、私はそれに同行したが、将軍様は相手が差し出す以上の要求をして相手を辱しめるような真似はされなかった」

「何だと!私が無理な要求をしてると言いたいのか!」

「将軍様ならば、家臣の妻を差し出せというような、礼を失した言動はなさらぬとお話ししてるだけです」

「何だと!江間義時、そなたこの私を愚弄するつもりか!」


頼家がコシロ兄に掴みかかろうとする。


——パン!

咄嗟にヒメコは手を打ち鳴らして声を上げていた。

「皆様、落ち着かれませ。添い臥しでしたらお受けいたします。但し準備に時間を少し要しますので、皆様、庭にてお酒を召しながらお待ちください」

 そう告げると、問答無用で皆を外に追い出す。

「おい」

 険しい顔をしたコシロ兄にそっと近付き、酒と、かわらけが何枚か乗った盆を渡して囁いた。

「強い酒に薬を混ぜて酔いを強くするようにしてあります。皆様に大量に飲ませて下さいませ」

それから心配気に覗き見ていた金剛を手招きして部屋の片付けを手伝って貰いながら、その耳にそっと囁いた。



「それでは皆様方、此方へどうぞ」

 全ての調度品を片付け、広々ガランとした部屋に皆を通す。

「今宵はこちらで皆で将軍様の御後継である若殿の添い臥しを賑やかにいたましょう」

明るく言い、金剛を手招きする。

「さ、金剛も。また、比企殿の若君様方も皆こちらへいらっしゃいませ。皆で楽しく過ごしましょう」

「はい!」

金剛が元気に返事をしてヒメコの隣に座り、その向こうで戸惑った顔をしていた頼家に声をかけた。

「若殿、狩の際の心得についてご教示くださいませんか。私は先の狩にて、小鹿一頭しか仕留められませんでしたが、若殿は見事な鹿を仕留められたとか。どのようにしたら、それだけの力がつくようになるのでしょうか」

「そんなものは知らぬ。私は生まれついての将軍だと言われ、出された物は全て平らげ、こやつらと相撲を取って過ごしただけだ」

不機嫌そうに、でも比企の乳母子達を自慢気をに見やりながら律儀に答える頼家。思えば、金剛には乳母子という近しい友人のような仲間、近習がいない。早速、コシロ兄に相談しなくては。そう思った時、

姫御前」

声をかけられ、手首を掴まれた。冷たい手にゾワリと鳥肌がたち、咄嗟に振り解きたくなる。

——何?この嫌悪感。

でも、ヒメコの手首を握っていたのは頼家だった。無理には振り解けずにじっと固まって息を詰めて我慢する。

その時、フジがバンと大きく戸を開き、盆を手に入って来た。ヒメコは掴まれていた手をくるりと捻らせて解くと、サッと立ち上がった。

「柿をお持ちしました。お腹が空いた方々には握り飯もありますので、どうぞたくさん召し上がれ」

皆が手を伸ばし、柿を平らげ、握り飯にかぶりつく。やがて腹がくちくなった男らは皆転がって寝入り始めた。ヒメコはそっと立ち上がるとコシロ兄の隣に腰を下ろした。何も言わずにコシロ兄の袖を握り締める。何かよくわからないけれど恐ろしかった。コシロ兄の温かい腕にそっと腕を沿わせる。肩を掴まれた。コシロ兄の手。その熱と力強さに少しだけホッとする。


翌朝、一行が去った後、コシロ兄が言った。

「今日は急いで戻る。俺が戻るまで誰が来ても屋敷に入れるな。また外へ出るな。フジと藤五にもそう伝えてある」

ヒメコは頷いてコシロ兄を見上げた。

「お早いお戻りを」

 不安な顔をしてしまっていたのかもしれない。強く腕を引かれ、胸の中に収められる。

「わかってる」

 低い声にヒメコは額をコシロ兄の胸に押しつけ、目を閉じた。

——離れたくない。

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