十一 袖の裾
「おや、ヒメコ。上がっておったのか」
声をかけられ、ヒメコは頭を下げた。
「聞いたぞ。小四郎の子を授かったとか。大事にしろよ」
ヒメコは礼を言って顔を上げた。頼朝は満足げに笑っていた。頼朝の後ろにコシロ兄が控えていた。ほんの一瞬だけ目を交わす。
「あの小さかった赤子が、直に母になるとはな。私の膝を伝って立ち上がったのがまるでつい先日のことのように思えるのに、私も随分と年を取ったものだ。まるで孫が出来るようだ。やれやれ一気に爺さんになってしまう気分だな」
ヒメコは笑った。
「まぁ、佐殿ったら、そんなお年ではございませんのに。でも、そろそろ若公も大きくご立派に成長されましたのでご元服の頃でしょうか。そうしたら初孫のお顔を見られる日も間近でしょうね」
と、頼朝の顔が僅かに曇った。ヒメコはひたと頼朝を見つめた。頼朝はヒメコを見返した後、迷いを振り払うように片方の口の端をグッと持ち上げた。
「とにかくは此度の狩だ」
硬い声。
やはり。頼朝も何かを察しているのだ。ヒメコは腹を抱えながらにじり出て頼朝のすぐ前に進み出ると、頼朝の袖の裾を膝で踏みつけた。
驚いたように顔を上げる頼朝をはっしと見返し、その耳元で口を開く。
「動いてはなりませぬ。迷った時にはグッと堪えてその場にお留まりください。このように私が踏んでいると思って」
頼朝はヒメコの膝に踏まれた自らの袖の裾を見た。暫し沈黙する。
「そうか、承知した」
小声でそう短く答えた後にヒメコが踏んだ袖の裾をスッと取り戻すと、それをハタと大きく振るって手を胡座の膝の上に戻し、快活な笑顔でコシロ兄を振り返った。
「義時、強き女子からは強き子が産まれる。姫御前はこの幕府きっての女房。産まれた子が男児であれば、元服の際には私の『朝』の字を一字与える。覚えておけよ」
平伏するコシロ兄に鷹揚に頷いた後、ヒメコを振り返る。
姫御前、出産までには小四郎を戻す。難産せぬよう、食べ過ぎには気を付けろよ」
「まぁ」
慌てて頰を押さえたヒメコをハハハと明るく笑い飛ばし、頼朝はコシロ兄を連れて出て行った。
伝えられた。
ヒメコはホッと息を吐いた。
あとは。
アサ姫の元へと戻り、願う。
「童相撲の猛者を四、五人程、お集めいただけませんか?」
アサ姫は頷いた。
「それが貴女の言う備えになるのね?」
「はい。雨の夜には、将軍様のお側にて目立たぬよう隠れているようにと伝えてください。また、何事かあれば足を狙えと」
それからヒメコは母と共に江間屋敷へと戻る。
「あら、比企の屋敷ではないの?」
ヒメコの手を引っ張る母の手を逆に引っ張り返し、
「金剛の様子を見たいのです。私は今日は江間に泊まりますので、母上も比企の屋敷でお寛ぎ下さいませ」
言って江間の屋敷に入る。意外なことにコシロ兄が先に帰宅していた。
「母上、お帰りなさいませ」
手を付く金剛の頭を撫でて上がり、奥の部屋にいるコシロ兄の元へと向かう。
「殿、お帰りなさいませ」
頭を下げる。コシロ兄は、ああと返事をしてヒメコに向き直った。
「来月、五月の八日に富士の狩倉に向かって発つ。だから六日まではここに居られる。体は大事なかったか?」
問われてヒメコは頷くとコシロ兄に身を寄せた。
「七月までお会い出来ないかと思っておりました」
「ああ。そうなる筈だったのだが、将軍様が、そなたが身籠っていると知って、一旦屋敷に戻るようにと私は鎌倉でのお役目を外された」
「そうだったのですか」
「まさか御所に居るとは思わなかったがな」
そう言ってコシロ兄は苦笑した。
「申し訳ありません」
「いい。大姫様が御台様の使いとして来たのだと金剛から聞いた」
「金剛が?」
コシロ兄が笑って頷く。
「賢い子だ。どこかの誰かより余程気が回る。そなたが私に叱られぬようにと先手を打たれた」
ヒメコはそっとお腹をさすった。
「殿。この子が産まれて、もし男児であっても、金剛が嫡男で江間の跡継ぎで宜しいのですよね?」
「無論だ。金剛は私の嫡男」
迷わず答えたコシロ兄にヒメコはホッとする。
「はい。 兄弟仲良く力を合わせるようにと育てます。ここに金剛を呼んでも宜しいでしょうか?」
尋ねたらコシロ兄が声を上げて金剛を呼んでくれた。
金剛が返事をして戸を開けて入ってくる。
ポコポコとお腹から振動が伝わった。
「殿、ややこが動きました。ほら」
コシロ兄の手を引いて自分の腹へと当てる。その途端、腹の中の子が大きく跳ねた。
「うわっ」
コシロ兄が声をあげて後退る。
ヒメコは思わず噴き出す。
「まぁ、怖いことはありませんのに。ね、金剛?」
ヒメコの後ろで金剛が肩を震わせて笑っていた。
「金剛はこの子が動き出す前から毎日この子に声をかけてくれていたのです。だから金剛が近付くとよく動くのですよ。そして金剛が和歌を読むと大人しく眠るのです。産まれてからもこの子がグズったら和歌を読んで寝かしつけてくれるそうです。頼もしい兄君ですわ」
と、コシロ兄が僅かに口を歪めた。
「悪かったな。頼もしくない父親で」
その拗ねた口調が可笑しくてヒメコは笑った。
「女は身籠ったらあっちゅう間に母になれますのんに、男は赤子の顔を見て抱き上げるまで父にはなれんもんやねん。ま、そぉゆぅもんや思うて堪忍したってや」
コシロ兄が目を瞬かせる。
「何だ?急に」
「摂津局様のお言葉です。父とは母とはそういうもんやねん、しゃあないって仰ってました」
コシロ兄は苦笑して言った。
「そういうもんならしょんないら。産まれるまで堪忍だな。元服後の名まで決まってしまっているしな。将軍家に『朝』の字をいただくということは、男児なら朝時だな。姫ならどうする?『朝』の字をいただいてアサ、という訳にもいかぬだろうな」
「では、トモ姫ですね」
コシロ兄がうーんと唸った。
「どうなさいました?」
「悪戯で利かん気の強い姫になりそうだ。やはりこの子は男児だといいのだが」
真剣に悩み始めるコシロ兄に、金剛と顔を見合わせて笑う。
「ところで産屋のことだが、いかがしよう?」
問われ、今度はヒメコが俯いた。
「出来れば比企ではなく、この鎌倉で産みたいのですが難しいでしょうか?」
コシロ兄は暫し黙った後に、実はと話し始めた。
「この江間の隣の佐々木殿が鎌倉の中に別の土地をいただいて移るらしいのだ。空いたそこを使わせて貰えぬものかと将軍家に相談してみよう」
「有難う御座います」
ヒメコは頭を下げた。もしそれが可能ならば、コシロ兄とも金剛とも産屋に入る直前まで共に居られるし、産まれてすぐに抱いて貰うことも出来る。フジも近くに居てくれるし、お産婆の婆様に命を預けることが出来る。
やがて戻ってきたコシロ兄は笑顔だった。
「将軍家のお許しを得た。また比企のご両親とも相談し、了解を得た。産屋の設営は私の留守の間、比企のお父君が請け負ってくださるすることになった。万一私の帰りが遅れても、そなたのお産が早まっても大事ないよう段取りつけて下さるので安心しろ。
また、大姉上から五人の小舎人童を預かった。相撲取りらしいな。隠して狩に同行させ、夜間は宿所のお側に控えさせる。それでいいのだな?」
ヒメコは黙って頷き掌を合わせた。
「はい。どうぞ宜しくお願いいたします。どうかご無事でお戻りください」
コシロ兄はそっと微笑んで答えた。
「まだ父になれていないのだ。何があろうと戻ってくる。そなたこそ、もう動かぬよう。今度こそ大人しくしていろよ。金剛にも伝えておいたからな。屋敷から出すなと。守れよ」
ヒメコは頷いた。
「はい、お約束いたします。お産の時まで一歩も外に出ません。だからどうか」
ご無事で。
手を伸ばしたら、ギュッと握られた。
「では、行ってくる」
コシロ兄は五月の六日に出掛けて行った。
その翌々日、八日に大行列が鎌倉を出て行く気配をヒメコは感じながら、廊から空を見上げて祈った。
「どうか、皆、平穏に過ごせますよう」
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