十二 神のたすけ
それからヒメコは屋敷内で金剛に和歌を教えて貰ったり、絵を描いたりと、のんびりした時を過ごした。金剛はたまに出掛けて行っては御所の様子を教えてくれた。もう身体も大きくなって、前に忍び込んだあの穴は通れないだろうし、大蔵御所は火事で建て直された。どうやって御所に忍びこんでいるのかと尋ねたら、顔馴染みの門番が居るらしい。宋銭か土産でこっそり通してくれるのだとか。八幡姫も彼の番の時に出入りしているとのこと。子ども達の賢さ逞しさが頼もしい。狩が終われば万寿の君は元服。それより一つ下の金剛は翌年に元服となるだろうか。時が経つのは早いものだと思う。
「母上、御台さまは何かご心配ごとがあるのでしょうか?」
ある日、金剛が八幡姫を伴って帰って来るなり、そう問うた。八幡姫が継ぐ。
「今日ね、富士から急ぎの使いがやって来たの。けれど母上は突然怒り出して、そんなことで急ぎの使いなど出すな!と使者を追い返したのよ」
「ご使者の口上はお聞きになりました?」
「万寿が狩で初めて鹿を射止めたって内容よ。なのに母上ったら『万寿は武将の子。野の鹿や鳥を得たくらいで軽々しく急使を出すなど煩わしい』って使いを急いで富士野に追い返したの。あまり母上らしくない対応だったわ。母上は何か別の使いが来ると思ってたのじゃないかしら。それが何なのか、姫御前なら知ってるのではない?」
ヒメコは黙った。
凶事が起きると口にしてしまった自分。アサ姫は頼朝の安否をずっと気にかけている筈。そこへ急ぎの使いが来たと聞けば、悪い報せかと想像してしまうのは当たり前。それでつい使者に当たってしまったのだろう。アサ姫にも使者にも悪いことをしてしまったと思う。
「姫御前?」
声をかけられ、ヒメコは顔を上げた。
「実は少し前に悪い夢を見たのです。だから警戒を、と将軍様と御台さまにお伝えしました。それで御台さまはずっと富士のご様子を案じておられるのです」
「悪い夢?」
ヒメコは俯いた。
あの夢の中で聞いた雨の音がするような気がして天を仰ぐ。でも鎌倉はここずっと晴天続き。このままでは作物が育たないのではないかと心配になる程に今年は雨が少なかった。
「母上、大丈夫ですよ。父上も叔父上も、また海野幸氏殿、望月重隆殿も富士に共に行っておられるのですから。そんなに難しい顔をしているとお腹の中のトモに障ります」
「トモ?お腹の中の子?もう名前が決まってるの?」
八幡姫が首を傾げるのに金剛がさらりと答えた。
「呼びかけるに名がないと不便なので、皆でトモと呼んでるのです。友のようにずっと共に居て欲しいと仮で付けた名です。呼びかけると応えてくれるますよ。ほら、姫さまも呼びかけてみてください」
「応えるって、お腹の中から返事でもするの?」
八幡姫は不審顔ながらヒメコの腹に顔を近付けて声をかける。
「トモぉ、あんたは男?」
途端、ヒメコの腹がポコンと動いた。八幡姫が飛び上がる。
「やだぁ、なんか今動いた気がするわ」
ヒメコは八幡姫の手を取って腹に当てた。八幡姫は暫くじっとしていたが難しい顔をして言った。
「うーん、動いてるような動いてないような。よくわからないわ。姫御前、さっきのはお腹が空いてお腹が鳴っただけなんじゃないの?」
皆で笑う。
帰りしな、八幡姫は言った。
「男の子ならトモトキね。父上の朝の字を貰うのでしょう?」
鋭い。ヒメコはやんわりと笑って手を振り八幡姫を見送った。名を継ぐ。名誉なことだ。でも時に重い枷となることもあるだろう。それでも名は贈り物。贈り主の心を継いで生きる糧になってくれる。
ふと、アサ姫が気にしていた曽我兄弟のことを思い出す。
祐の字は工藤氏の通字とアサ姫は言っていた。祐の字は右に器を持って神に祈る姿を表し、神のたすけを意味している。彼ら兄弟に、そして関わる全ての人に神の助けがありますように。
全ての人に、とは難しいことを承知しながら、それでもヒメコは祈った。
凶報が鎌倉に入ったのはその十日後の夕方だった。
「早駆けの馬が通った音がしたので少し様子を見て来ます」
金剛はそう言って出掛けて行った。僅かに雨の気配。でもお湿り程度の小雨で、稲の生育には到底足らないだろう。今年は本当にどうしたのだろうか。
やがて金剛が戻って来た。
「御所には入れませんでした。ただ、中は変に騒がしく明かりも常より煌煌と多く焚かれていて様子が変です」
ヒメコは小机を引き寄せて文を書き始めた。金剛に渡して言う。
「金剛、明朝にこの文を持って阿波局様をお訪ねなさい。江間義時の室からの急ぎの文だと門番に見せて。これを見せれば、どこの門からでも入れる筈です」
翌朝早く出掛けて行った金剛が戻ったのは昼前だった。
「工藤祐経殿が富士で討たれたそうです。その他何人か死傷者が出てるようですが、その中に海野幸氏殿の名がありました」
「殿と将軍様は?」
「ご無事と思われますが、これ以上の詳細がわからなくて」
「御台さまはどうされてます?」
「阿波局様にお会いするだけでやっとの状況だったので、何とも」
ヒメコは立ち上がった。でも金剛が立ち塞がる。
「母上、いけません。父上とお約束したのをお忘れですか?」
「でも」
「私が行って来ます。次は御台さま宛に文を書いて下さい」
ヒメコは金剛を見送って南の庭に面した廊に出た。雨が降り始めて来ていた。
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