四 闇

コシロ兄はポツポツと話してくれた。

「昨日は父や自分に対して憤りを感じていた。本当はあんな急な話にしたくなかった。お母君のことも気になった。俺は非力だ。何も自分の手で成し遂げられない。だがお前は嫁いで来てくれた。嫁げて嬉しいと言ってくれた。守りたいと思った。だがお前は逆に俺を守るかのようなことを言った。本当は嬉しかったんだ。だが同時に情けなく思った。自分の非力さ不甲斐なさが遣り切れなくなった。あのまま抱こうかと思ったが、お前が本当に受け入れてくれようとしているのを感じて踏み止まれた。だが怖い思いをさせたろう。済まなかった」

ヒメコは首を横に振った。言葉は出てこなくて、ただコシロ兄にしがみついた。コシロ兄はそんなヒメコを抱き留めてくれながら続けた。


「俺の中に闇がある。たまに顔を出して周りのものを喰おうとする。その標的の最たるものが父だ」

「お父上を?何故?」

コシロ兄は黙った。目を落とす。と、突然左手を取られた。

「何故この紐をお前が持っている?」

コシロ兄が掴んだヒメコの左手の薬指には、青い組紐が巻かれていた。

ずっと文箱の中に収めていた組紐。元服前のコシロ兄の髪を纏めていた紐だ。

「それは以前にコシロ兄が比企まで私を送って下さった時にお忘れになったのを私が勝手にお預りしておりました。江間に嫁げることになり、殿の血族として迎え入れられるよう願をかけて巻きました。お許しも得ずに申し訳ありません」

言って頭を下げる。

左手は男性の他人を、また薬指は親類縁者を意味する。左の薬指に紐を巻き付けることで、その紐に所縁の男性との間柄を先祖に守護して貰うという古くからのまじないだった。

コシロ兄はヒメコの手を取り、まじまじと紐を見つめながら言った。

「これは母の形見だ。いつか無くしたまま探したが見付からずに諦めていた。持っていてくれたのか」

ヒメコは青ざめた。

「形見?そんな大切な物だと思わなくて。御免なさい」

慌てて紐に指をかけ、外そうとするヒメコの右手がとられた。

「いい。そのまま持っていてくれ」

そう言ってコシロ兄はヒメコの手の甲に唇を落とした。唇は手首へ、肘の内側にと這って行き、ヒメコは気付いたら押し倒されていた。

「あ」

摂津局に見せられた絵が頭の中をよぎり、ヒメコはギクリと身体を強張らせる。

怖い。

と、コシロ兄が口を開いた。

「怖がらなくていい。猫のように力を抜いてぐったりしてろ」

「え?猫?」

意外な言葉にヒメコは問い返す。コシロ兄は僅かに肩を竦めた。

「タンポだったか?金剛の猫。あれのようにしてろ。なるべく怖くないようにするから」

ヒメコは笑った。

「猫はもう怖くなくなりました?」

「いや、まだ触ることは出来ないが、少し見慣れた。朝、俺が出かける時にいつも俺の横をすり抜けて外へ出かけて行く」

「そうだったのですか」

ヒメコはその光景を想像して口元を綻ばせた。

「夜に金剛の部屋を覗いたら、金剛と猫が並んでまるで同じ格好で腹を出して無防備に寝ていた」

ヒメコは笑顔で答えた。

「あの子達は兄弟ですから」

コシロ兄も笑った。

「あれらのように安心して力を抜いていろ」

ヒメコは頷いて、固く握り締めていた手の指を緩めた。

その夜はとても穏やかな夜だった。

耳元で聞こえる低い声に身が竦む。恐怖ではなく、自分でもよくわからない震えが体を走る。


やがてヒメコの隣にコシロ兄も横たわり、ヒメコの左手を手に取った。


「いつからだろう。触れたいと思った。自分のものにしたいと。でも触れたら穢してしまいそうで怖かった。佐殿に『源氏の姫巫女に穢れを近付けるな』とそう言われたことが呪縛のように残っていた。でも触れてはいけないとわかっているのに触れたいと望む自分がいて戸惑った。無鉄砲に動くお前に気が休まらず、いっそ誰かのものになればと思ったこともある。だがそう思う一方で、そんなことになったらその誰かを殺してやりたくなるのではないかと考える自分を恐ろしく思った。俺にはあの男の血が流れている。目的の為なら手段を選ばない、調子だけ良くて実のない話をして平気なあの男の。俺はそれを認めたくなくて、口を噤むようになった。じっと観察して無駄な動きを避けるようになった。揚げ足を取られないように。そして、いつかあの男の揚げ足を取ってやれるように」

ヒメコは黙って聞いていた。口を挟んではいけないと思った。頷きもせず、ただ黙ってその場にいた。

前に言っていたな。穢れたら祓えばいいのだと」

ヒメコは頷く。

「だが祓い切れない闇はどうすればいい?

母は伊東祐親殿の長女で父の正室だった。母は三郎兄上と俺、全定殿に嫁いだ妹の三人を産んだ。俺は姉二人や五郎とは別腹だ。父は俺の母を嫌っていたように見えた。伊東の祖父の手前、表向きは正室として立てていたが、その死を願っているようにすら見えた。だから俺はいつも思っていた。いつか父を殺そうと。父を殺して母を助けてやらねばと。だが間に合わずに母は死んだ。父が直接手を下した訳ではない。でも俺の中には恨みの感情が残り、それがなかなか消えない」

ヒメコは遠い日にアサ姫が話していたことを思い出した。

「父は兄を疎んじていた。兄は父に嵌められたのではないかしら?」


殆ど忘れかけていたその言葉。それが今引っかかって飛び出てきた。でもヒメコは口を噤んだ。アサ姫は言っていた。ヒメコの胸の中だけに留めておいて欲しいと。

ヒメコは黙ったまま思いを馳せた。

アサ姫とコシロ兄、そして三郎殿。彼らとその父、北条時政。その正室であったコシロ兄の母君。

絡まって色褪せてしまったそれらの関係がこの組紐に表れているようで、ヒメコは切なくなった。

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