三 好きな人
どうしよう。
そう言ってもどうしようもない。
謝って許してくれるだろうか。許してくれなくても謝るしかないけれど。
うん、それしかない。
それで許してくれなかったら?
そう考えて怖くなりかけたけれど、コシロ兄が許してくれないことがあるだろうかと逆に考えた。
そうして思う。
そんなことあるわけない。だってコシロ兄なのだから。自分が好きになった相手なのだから。
自分が信じなくてどうする。
そんな事を考えながら手の中の葵の花弁の縁を目でなぞっていたら金剛が声をあげた。
「母上、葵は母上に似ていますね」
「え、葵?」
「はい。いつも懸命に背を伸ばしてお天道様を見上げてます」
ヒメコは首を上げ、慌てて背を伸ばした。それからそっと金剛はと見る。金剛は机に向かって何か書き物をしていた。項垂れていた姿を見られなくて良かったとホッとする自分のいじましさに心の中で苦笑する。
「はい、出来上がりました」
金剛は立ち上がってヒメコの元にやって来ると、今書き上げたらしき紙を見せてくれた。
葵の花と、それを見下ろす人の横顔。
上を向く葵の花は良いとして、
この横顔は項垂れているヒメコか。やっぱり見られていた。がっくりと首を落としかけたヒメコに金剛は明るく言った。
「お天道様は動きます。葵の花も一巡りします。曇りや雨の日もあるからこそ葵の花は夏の強い陽射しの中、真っ直ぐ立っていられるのでしょうね」
力に溢れた金剛の声。涙が溢れそうになる。
「そうね。本当にそうなのでしょうね」
頷いて手渡された絵を見つめる。嬉しそうに首を伸ばして凜と咲く葵の花とそれを見下ろす人の優しげな横顔。
「貴方の絵はとても優しいわね」
前に見せて貰った絵もそうだったと思い出す。絵でも字でも、筆にはその人柄が滲み出る。金剛の筆はとても穏やかで優しい。だけど芯はしっかりとしている。八重姫はそんな女性だった。
母代わりなんてとても出来ない。でも金剛を可愛く思う気持ちに偽りはない。その気持ちだけ大切に、ヒメコらしく穏やかに、その成長をそっと見守っていきたいとそう思った。
「あ、そろそろ前にお約束した絵と歌の師を探しましょうね」
金剛は、はいと笑顔で頷いて、また机に戻って行った。
でも少しして戻って来る。
「母上は吉野に行ったことはおありですか?」
ヒメコは首を横に振った。
「古今集などを読んでいるとよく出て来るのですが、どんな所なのかな、と思って」
吉野。
言われて、静御前のことを思い出す。
「冬は雪が深い所のようです。また桜花の名所でもあるとか」
「へぇ」
「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
あの日、鶴岡八幡宮で舞った静御前の声を思い出しながら歌う。
「あ、それはこれの本歌取りですね」
言って、金剛はパラパラと冊子をめくり、声を上げた。
「みよしのの山の白雪ふみわけて 入りにし人のおとづれもせぬ」
「え?本歌取り?」
「ええ。この壬生忠岑の歌を元にしたのでしょう?母上が詠んだお歌ですか?」
ヒメコは慌てて手を降る。
「いいえ、とんでもない。これは静御前という女性が鶴岡八幡宮で詠んだお歌です」
「静御前?」
金剛が不思議そうな顔をする。そうか、静御前が鎌倉に来たのは金剛がまだ三つくらいの頃だった。
ヒメコは鶴岡八幡宮での場面を思い出しながら、あの日の光景を金剛に話して聞かせた。金剛は目を輝かせて聞いてくれた。
「御台さまはオオマスラオですね」
「え?」
「男以上に肝が据わっておられる」
ヒメコは頷いた。
「そうなのです。佐殿が挙兵前に悪夢を見て怯えていらした時には佐殿の手を引っ張って外へ出て、弓比べを始めたこともありました」
「弓比べ?本当ですか?」
あ、しまった。喋り過ぎかしら。そう思ったけれど、嬉しそうに耳を傾ける金剛の顔を見ていると止まらない。
「それに佐殿が鎌倉に入られた後、お迎えが来たのですが、なかなか御所様にはお会い出来ず、やっとお会い出来た時、感極まった御台さまは御所様を引っ叩かれて」
痛そうに頬を押さえる金剛にヒメコは笑った。その時、咳払いが聞こえた。
「その辺にしておけ。今頃、御所では将軍がくしゃみをして典医達が大騒ぎしてるかも知れん」
低い声にヒメコはハッと顔を上げる。
戸口の所にコシロ兄が立っていた。
「父上、お帰りなさいませ」
駆けつけてきちんと挨拶する金剛に、ヒメコもその場で背を伸ばして手をついて挨拶をした。
「お帰りなさいませ」
ああ、と答える声。
帰って来てくれた。ホッとする。コシロ兄はいつもの顔だった。
部屋に向かうコシロ兄の後に付いていき、着替えを手伝う。
夕の膳を頂き、二人きりになった瞬間、ヒメコは頭を下げた。
「御免なさい。何も知らないのに生意気なことを申しました」
済まない。辛い思いをさせた」
声に目を上げたらコシロ兄が頭を下げていた。
同時に頭を下げていたのだ。
ヒメコはコシロ兄の首に飛びついた。
「おい?」
戸惑ったらしい声が聞こえたけれどヒメコは離れなかった。やがて背に腕が回される。
温かくて優しい腕。
良かった。ヒメコは心からホッとして言った。
「お帰りなさいませ」
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