ニ 葵の花
そのままコシロ兄は向こうを向いてしまった。
ヒメコは目を開けたまま、まんじりともせず時を過ごす。
でもそれはコシロ兄も同じだったようで、ややして溜め息が聞こえた。
「起きているのだろう?」
問われ、はいと答えて起き上がる。
「気が立っていた。変な話をして済まなかった」
ヒメコは首を横に振ってコシロ兄の隣に移った。
「いいえ、私は嬉しゅうございました」
コシロ兄が眉を顰める。
「私は貴方のお顔を見て、そのお声を聴けるだけでも嬉しかったのですが、そのお心の内を見せて頂けて、やっと妻になれたのだなと安堵いたしました」
「安堵?」
怪訝な顔をするコシロ兄に、ええと頷く。
「今までずっと私が我儘を言ってコシロ兄を困らせて来ました。だから今度はコシロ兄が私を困らせてくれていいのです。愚痴でも弱音でも何でも聞きますから、どうぞ安心してお任せください。何でも受け止めますから」
胸に手を置いてそう言ったら、コシロ兄は口を引き結んでヒメコを睨みつけ、向こうを向いて横になってしまった。
「あの?」
おずおずと声をかける。コシロ兄が身じろいだ。
「悪いが今日は余裕がない。離れていてくれ」
言われたけれど、その身から立ち昇る暗い陰が気になる。
「あの、お加減が悪いのでは?」
その肩に触れる。
途端、コシロ兄が身を起こした。
「離れていろと言ったろう」
「でもお具合が悪そうなので」
熱をはかろうと伸ばした手が払われ、逆の腕を掴まれる。
あ、と思った時には押し倒されて口を塞がれていた。
熱の塊のような凄まじい気がヒメコを包む。肌を啄まれ吸われた時、ヒメコは噛み殺されるかと思った。その手は冷たく堅い。ヒメコを拒否するようにその目はヒメコを見ない。でもヒメコは戸惑いながらも受け入れようと目を閉じた。だがその瞬間、コシロ兄は身を離して向こうを向いて伏してしまった。
「あの」
声をかけるも返事はない。
ヒメコは部屋の隅に仄かに灯された灯明の明かりを頼りに真上の梁を眺めた。まだ新しい木の香り。どこからか聞こえてくる近隣の屋敷の中の音や外を通る人の声。馬の気配。それらの一つ一つに耳を澄ませているうちにヒメコはいつの間にか眠ってしまっていた。
気付いた時にはコシロ兄の気配は無くなっていた。閉じた蔀戸の隙間から漏れる陽の光。
慌てて身を整えて部屋の外へと飛び出す。
「おはようございます」
フジの笑顔に迎えられ、見慣れた江間の屋敷を見渡す。
「あ、あの、コシ、いえ、殿は?」
「今しがたお出かけになりました」
ヒメコは追いかけようとして履物を探した。でもフジに腕を掴まれ止められる。
「お方様は今日より暫くはお外にお出になりませんよう」
「え、何故?」
「何故も何もございません」
「でも」
フジの手を外そうとするが、強く押し留められる。
「お方様は昨日江間に入られたばかり。婚儀の直後に外にお顔を出してはなりません」
「見送りたいだけです」
でもフジは頑なに首を横に振った。
「いけません。とにかくこの三日はお姿を晒さぬようお願いいたします」
三日。
結婚した身で軽々しく動いていけないのはわかる。
でも。
果たしてコシロ兄は今日戻って来てくれるのだろうか。
ヒメコはそんな不安を感じて外へと通じる戸の向こうから聞こえる町の人々の賑わいに耳を傾けた。
昨晩のコシロ兄は今まで見たことのないような怖い顔をしていた。体調が悪いのではないか。それとも何か気に触るようなことを言ってしまったのか。思い悩むが外に出ることは出来ない。
早く無事に帰って来て欲しい。
そう祈りながら床の木目を目でなぞる。
「母上、おはようございます」
明るい声にハッと振り返る。
金剛がきちんと手をついて座っていた。
「あ、おはようございます」
慌てて挨拶を返す。
すると金剛が微笑んだ。
「ございます、はもう付けないでください」
「ごめんなさい。つい癖で」
謝ったら金剛はヒメコの目の前に薄い桃色の花を差し出した。夏用の薄物の着物のように透き通って波打ち広がる花弁。その中央には鮮やかな菜の花色に輝く花芯。たおやかな風情ながら凜とした佇まいに目を奪われる。
「まぁ、なんて綺麗」
「この夏、庭に咲いた葵の花です。もうてっぺんまで咲いてしまったのですが、そのてっぺんの一番綺麗な一輪を母上に」
少し恥ずかしそうに目線を斜め下に泳がせながら、きゅっと口の端を持ち上げ、得意げな顔でヒメコを見上げる金剛。
「ありがとう」
ヒメコは両手を広げて金剛の手ごと薄桃色の葵を受け取る。
萎みかけていた心に日が射したように感じた。
「フジ、取り乱して御免なさいね。ちゃんと大人しくしてますから」
言ったら、フジは優しく微笑んで、
「お腹が空きましたでしょう。朝餉にしましょう」
そう言って、膳を運んで来てくれた。
立ち上がろうとしたヒメコだが、身体があちこち痛くて動けない。
「あ、お方様はそのままで。さ、金剛君もどうぞ」
言われ、大人しくその場にて箸を取る。
「御免なさい。明日はきちんと起きますので」
慣れた江間の屋敷だけれど、朝を迎えるのは初めてのこと。
「殿はいつも朝はお早いの?」
問えば、フジはええと頷いた。
「お戻りにならないことも多かったですし、食事は取らないか、その辺にある物を適当につまむ程度でしたから、目につく所に干し肉や木の実など、すぐ口に出来て携帯も出来るような物を常に用意しておりました。木の実がお好きなので、今朝もそれを手にお出になりましたが、いつもより少ししかお持ちにならなかったので、きっと今日は早めにお戻りになると思いますよ」
「そうなのね」
ぼんやり答えてから思う。自分は普段のコシロ兄の暮らしを殆ど知らない。何を好み、何が苦手で、どんなことに気を遣い、どんな時に喜ぶのか、怒るのか、何も知らない。
その瞬間、
「私を困らせてくれていいので」そう口走ってしまった昨晩の自分を思い出した。
「何てこと」
ヒメコは自分の頬を押さえた。
自分は確かにコシロ兄の妻となった。でもまだ彼のことを殆どと言っていいくらい知らない。なのにあんなことを言ってしまうなんて。
自分の思い上がりと幼さ、至らなさに顔から火が出る思いがする。
コシロ兄が怒って当たり前だ。
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