十九 櫛

突然話を振られてヒメコは戸惑う。

巫女をやめて結婚という話が来るのだろうということはわかった。巫女はやめると答えようとして、でも気付いたら口が答えていた。

「私は年齢的には既に巫女ではありません。でも気持ちは恐らく一生巫女です」

頼朝はふぅん、と答えてコシロ兄を見た。

「だそうだ」

そこでヒメコは慌てる。しまった。コシロ兄は頼朝に許可を取ってくれようとしていたのかも知れない。なのにどうしてそれを台無しにするような事を口にしてしまったのか。悔やむが取り消せない。

コシロ兄はどう思っただろうかと恐る恐るそちらへ目を送る。

コシロ兄は碁盤を見ながら口の端を上げていた。苦笑しているような楽しそうなような不思議な笑みだった。それから口を開く。

「昔、御所様は私と五郎に仰った。源氏の巫女に穢れを近付けるなと。では、ただの巫女であればどうですか?やはり穢れは避けるべきでしょうか?」

あ。ヒメコの中で何かが繋がった。

「触れて、いいか?」

あの日、躊躇いがちに問われた。出逢ったばかりの頃はポンポン捕まれ、投げられていた。でもいつの間にか距離が遠くなっていた。触れられなくなっていた。そう、多分佐殿が挙兵するからと自分を巫女として扱うようになってから。

「あ、あの!」

ヒメコは割って入った。

「祖母が言ってました。穢れていない巫女など存在しないと。人は生きる限り穢れ続ける。でもそれでは神に近付けないから祓い続けるのが巫女だと。だから穢れの中にあって巫女はいいのです。生きて穢れながら、祈り祓い続けることに意味があるのだと思うのです。だから!」

そこで言葉に詰まる。

しんと静まる場。

「私は、江間様の妻になりたい。妻にして下さい」

「姫御前を、この巫女を私に下さい」

声が二つ重なった。


プッと頼朝が噴き出す。

「やれやれ、示し合わせていたのか?仲の良いことだ。なぁ?」

同意を求めてアサ姫を振り返った頼朝が目を見開いて身を乗り出した。

「おい、アサ。そなたどうした?」

頼朝の言葉にアサ姫に目を移したヒメコも驚いて息を呑んだ。

アサ姫はその両目から涙を溢していた。

「御台様?お具合でも?」

慌てて駆け寄ったヒメコにアサ姫は首を横に振って微笑んで言った。

「やだ、御免なさいね。嬉しくて、つい」

ボロボロと溢れ落ちる涙にヒメコは胸がいっぱいになり、何も言えずに頭を下げた。

「有難う御座います」

いつも見守ってくださる私の観音さま。


その時、頼朝が頭を下げた。

「参りました。うーん、やはり駄目詰まったか。先読み力を上げたな、小四郎」

コシロ兄も頭を下げた。頼朝は盤上の石をカラカラと戻しながら上機嫌で言った。

「うむ、目出度い。小四郎、ヒメコ、夫婦となって、これからも私たちを支えてくれよ」

「あ、でも!」

ヒメコは慌てて声を上げた。首を傾げる頼朝にコシロ兄が続けてくれる。

「私はまだ服喪中なのでもう少し先になります」

頼朝が頷いた。

「そうだな。金剛のこともあるな。喪が明けるのは次の弥生か?」

コシロ兄が頷く。

「では弥生の桃の節句が済んだら話を進めるのが良かろう。さて、流石に冷え込んできた。アサ、奥へと戻ろう。小四郎、明日は休め。しっかりと休むことも大事な務めと心得よ」

コシロ兄は返事をして一礼すると懐に入れていた温石を廊の端に置き、ヒメコが包んだ水干を手にすると背を向けて去って行った。アサ姫がそれを見送りながら言った。

「淡白な子ね。ま、でもあの子にしては頑張ってよく口にしたもんだわ。ね」

言ってヒメコに微笑む。ヒメコはコシロ兄が置いて行った温石を持ち上げて気付く。その下に紙に包まれた何かがあった。

忘れ物だろうか。追いかけようかと思ったが、表にコシロ兄の字で「姫御前」と書いてある。

忘れ物じゃない。ヒメコはそれを懐にしまうとアサ姫に一声かけ、急いで自分の部屋へと戻った。

紙に包まれていたのは朱塗りの櫛だった。

「似合うと思ったので」

それだけ書いてあった。

甲の下に隠してくれていたのだろうか。紙は少し捻れていて温とかった。それで水干を脱ぐのを躊躇ったのかもしれない。そう思うと笑みがこぼれる。

素盞嗚尊が櫛名田比売を八岐大蛇より救ってより、櫛は求婚の印。


ヒメコは櫛を大切に胸に当てて誓った。どんなクが待っていようと、シが二人を分かつまで彼を支えようと。

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