十五 瓦解
江間への帰り道、金剛が問う。
「姫御前はどうして私の面倒を見てくれるの?御所の女官なのに何故?」
「私は比企の者です。比企は御所様のお父君の源義朝公の代から乳母としてそのお血筋の子を守るのが役目」
「乳母?めのとって何?」
「乳母とは主のお子をお育てするお役目を持つ者です。私の祖母は佐殿の乳母として、伊豆に流刑となった後も支援を続けました。そして万寿の君の乳母夫は、私の祖母の養子の比企能員という者が今そのお役目に当たってます。乳母夫とは、父母がわりに教育にあたる者です」
「では、江間の父上は金剛の乳母夫なの?」
ヒメコは首を横に振った。
「江間様は八重様が仰られた通り、金剛君のお父君です。八重様が貴方をご懐妊され、御所様と御台さまがどうすべきか悩まれた時に江間様が仰ったそうです。貴方を自分の子として育てると」
「本当の子ではないのに?」
ヒメコは頷いた。
「血の繋がりとは違う繋がりもあります。実際、江間様は金剛君をとても慈しんでおられる」
「どうして?主と言っても他人の子なのに大切に思えるものなの?わからないよ」
「わからないなら、じっと観察すれば良いのです。疎まれてないか、邪魔に思われてないかと疑いながら観察してみればいい。金剛君は前に、字を教えてくれたのは江間様だと教えてくれましたね。その時のお父君はどんなご様子でしたか?表情や仕草を貴方は覚えてらっしゃる筈です。どんな言葉をかけられたか、本を読んでいた時はどんな声をしていたか。出掛ける時、戻る時、貴方に向ける全ての動きを観察して判断なさいませ。お役目で渋々やっているのか、そうでないかを」
金剛は黙った。
「同様に私のこともです。最初、佐殿に乳母になれと言われた時は戸惑いました。でも側で過ごす内に可愛くてたまらなくなる。気付くと貴方のことを考えている。面白い話を聞いたら貴方にも伝えたくなる。美味しいものが手に入れば食べさせたくなる。その笑顔を見たくて通いました。貴方が本当に自分の子ならいいのに、と」
金剛がチラとヒメコを見上げた。
「姫御前はお役目だから父上と結婚するの?父上が母上を預かったように父上と結婚して私を預かるつもりでいるの?」
「いいえ、お役目で結婚するつもりは私はありません。貴方の母に、江間様の妻になりたい」
つと黙ってからヒメコは勇気を出して口を開いた。
「私は幼い頃より江間様のことを慕ってきました。許されるならお側にいたい」
金剛はヒメコを真っ直ぐ見た。
「じゃあ、母上が亡くなって良かったんだね」
ズグリと腹を刺された。そんな気がした。
「母上が死んだのはあんたのせいだ」
駆け去る小さな足音。
そうだ。自分は最低な女だ。だから八重様が亡くなった後に顔を出せなくなったんだ。
心の奥底に、いつか自分を迎え入れてくれるのではないかという下心があった。そんな醜い自分に気付かないふりをして、コシロ兄の近くをうろついた。側に居ようとした。コシロ兄の為でも金剛の為でもなく、自分の欲求の為に。恋の心は下心。認めたくなかった汚らしい自分。それを曝け出され、金剛の信頼を全て失った。
御所に上がるも、乙姫を抱けばひどく泣かれ、部屋を片付ければ物を落として壊す。
「姫御前、悪いけど下がってくれる?よくわからないけれど今日の貴女を見てると何だか気分が悪いの」
大姫にはすぐ追い出された。自分の部屋に戻って鏡を覗いてやっと気付く。
「酷い顔」
乙姫と乙姫に感謝する。こんな顔をしていたら、そりゃあ拒絶したくなる。
鏡の中の自分の両頰を両手の人差し指で持ち上げてみる。
「笑え、笑え、笑え」
変な顔。目を背けたくなるくらい。でも背けずにじっと見続けた。歪んだ笑顔。目が笑ってないのがいけないのかもしれない。親指で目尻を下げてみる。
「益々変な顔」
ヒメコは諦めた。駄目だ。ここに居たら御所に悪いものを引き寄せてしまう。どうしよう。人の居ない所に行った方がいいだろうか。海とか?でももう夜になる。流石に危険だ。悩んだ挙句、ヒメコは父の屋敷に向かった。隣の江間の邸は目に入れないようにして比企の門を開けて貰い、中に入れば母が飛び出して来た。
「まぁ、ヒミカ!明日の朝にでも使いを出そうと思ってたのよ。私がこちらに来たこと、よく分かったわね」
「母さま、こちらにいらしてたの」
ぼんやり答えたら、ぎゅうと抱きしめられた。
「殿は上洛は同行せずにお留守番の役を賜ったので、比企に武者が増えてしまって騒がしいの。だから鎌倉に行ってなさいと言われて今日来たばかりよ」
「お祖母様はお変わりなく?」
「ええ。相変わらず憎たらしいことこの上なくお元気よ」
母と祖母は相変わらずなのだろう。でもその変わらない雰囲気に少しだけホッとする。
と、手を取られた。
「比企に帰る?」
「え?」
「比企に帰る?今は少し煩いけれど、風は心地いいし空気が乾いていて今頃は瓜の花が咲き始めているわよ」
「夕顔の花」
呟いたヒメコに母は頷いた。
「夕方になると明るい黄色が緑に映えてとても綺麗よ」
幼い頃、眠れぬ夜には祖母に背負われて瓜畑を巡った。大きな黄色の花はお月さまみたいだった。でも朝には萎んだ。悲しくて泣いた。
あ。
思い出す。
源氏物語で夕顔の君は六条御息所の怨念に殺された。
「母上が死んだのはあんたのせいだ」
私は六条御息所なのか。
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