十一 横恋慕

江間邸へ行く。が、コシロ兄は不在。侍所を覗いてから来れば良かったと戻ろうとした時、「姫御前」と声をかけられた。男性の声。でも藤五ではない。どうしよう?

逃げようか。うん、それがいい。

足早に御所へと向かったヒメコの前に一人の男が立ち塞がった。

「姫御前ってば、聞こえないの?」

行く手を遮られて身構えたヒメコに、その男は侍烏帽子を外して髪を振り解くと、垂れた髪の奥から悪戯な目を光らせて言った。

「ひでーや、姫姉ちゃんてば俺のこと忘れたの?」

「姫姉ちゃんって。え、もしかして五郎君?」

「もしかしてって、他に誰が姫姉ちゃんって呼ぶのさ。ホントひでーな。俺は姫御前のこと、後ろ姿だけで分かったってのにさ」

ザンバラになった髪をさっさと手際良く纏め上げ、何事もなかったかのように侍烏帽子に収めて美しい笑顔でヒメコを見下ろしたのは、確かに北条五郎時連だった。

「ご、ごめんなさい。声が変わってて背も伸びてらしたので分かりませんでした」

素直に答えたらまた非難の声をあげられる。

「えー、奥州に行く前と帰って来た時に俺のこと見たでしょ?目が合ったよね?」

「あ、はい。ご立派でした」

「なのに、わかんないとか言う?ひでーよ。俺は沢山の女官達の中でもすぐに姫御前がわかるってのにさ」

「御免なさい」

頭を下げたら、五郎は口を尖らせた。

「いいよ。どうせ小四郎兄ばっか見てたんだろ?ひでーよな。俺の方が絶対いい男なのにさ」

ヒメコは噴き出した。

「元服されてご立派におなりなのに、口調はお変わりになりませんね」

「うん、変わんないよ。姫御前のこともずっと好きだよ。で、俺も元服したからさ、もう妻を娶れるらしいんだ」

「え。まぁ、もう北の方をお迎えになるのですか?それはおめでとうございます」

驚きつつ頭を下げたヒメコに、五郎はハァと大きなため息をついて言った。

「姫姉ちゃん、ちゃんと聞いてた?俺、姫御前がずっと好きだってさっき言ったんだけど」

「え」

私も五郎君が好きですが、と答えようとしたヒメコの視界が暗くなる。五郎が腰を屈めてヒメコの笠の中を覗き込もうとしていた。思わず後ずさる。

「俺の方が少し歳が下だけどさ、姫御前を妻に欲しいって望んでもいいかな?」

「え?つ、妻?私を?」

ヒメコは笠の垂れ衣をパッと開いて五郎時連を見上げた。

幼い頃に北条館で共に遊んで、もう十年以上。確かにチラと初恋の人だと言われたことはあったけれど、まさかこんな所で蒸し返されるなんて。


「あ、あの、私は、その」

言っていいものか一瞬迷う。でも隠したり嘘をついたりするのは良くない。そう思う。

ヒメコは頭を下げた。

「御免なさい。私は心に決めた方が居るので、だから、御免なさい。時連様のお気持ちにはお応え出来ません」


言って顔を上げる。

「うん、いいよ」

あっさりと返事され、目を瞬かせる。五郎は笑っていた。

「え」

拍子抜けする。聞き間違い?それとも言葉のあやだったのだろうか。

「うん、いいよ。はっきり言ってくれて嬉しかったよ」

嬉しかった?五郎の言葉がよくわからなくて首を傾げる。すると五郎は向こうを向いて、あーあと小石を蹴った。

「小四郎兄が比企の姫を妻に迎えたいって言ってたんだ」

「え、言ってた?」

「うん、北条の父の前で。だからきっと二人の間に何かあったんだろうなって分かったんだけど。でも俺も言いたくてさ。ずっと姫姉ちゃんのこと好きだったから」

「五郎君」

俯くヒメコの垂れ衣をサラッと手の甲で掬って五郎はニコッと笑った。

「横恋慕して困らせて御免な」

「いえ、そんな」

ブンブンと首を横に振る。

「あ、でもさ。しんねりむっつりの小兄に愛想尽かしたら俺の所に来なよ。俺はいつでも待ってるからさ」

何とも答えられず、俯いたヒメコの前で五郎は踵を返すとサッと右手を軽く挙げた。

「じゃあ、俺、御所様の所に行かなきゃだから行くね。次はちゃんと俺だって気付いてよ。また逃げようとしたら泣くぞ」


そう言って五郎は御所の方へ駆けて行った。

ヒメコは深く頭を下げた。



翌日からヒメコは摂津局のしごきに耐えることとなる。

「あかん、目と手ぇが仲良ぅ働いとらんから溢すねん。あ、そんくらい平気やん。すぐほかさんといて。勿体無いやん。そゆんはこうしときゃええんや。ほら、これでええ。あとは涼しい顔しとき」


摂津局の指導は何というか女らしく慎ましやかな行儀作法とは違った独特の規則があってヒメコを驚かせたが、物を大切に無駄なく使い切る手腕や、全く別の性質のものを掛け合わせつつ、それらを違和感なく融合させる術など目新しく楽しくて、知らずヒメコは摂津局に惹かれていった。

摂津局はアサ姫とはまた違う意味で懐の広い人だった。人懐こくて面白くて勢いがあるので、つい引き込まれて色々な話をして過ごす内にいつかヒメコは大きく影響を受けていた。

「姫御前。その語尾はお止しなさい。摂津局みたいよ」

言われて気付く。

ねん、やん、なん。それらを語尾につけて話す癖がついていた。軽やかで可愛らしいと思ったからだ。

「変ですか?」

問い返したら、ええと頷かれた。

「女官らしくないわ。それに真似をして局をからかってるみたいにも聞こえるから局も気分を悪くするのではないかしら」

「真似」

そんなつもりはなかったけれど、局の気分を害してしまうのは嫌だ。ヒメコは気を付けて言葉を口にするようにする。

「なんや、今日は元気ないなぁ」

局に言われて、いいえと首を横に振る。局は不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は追及せずに布に包んだ何かをヒメコの前にドンと置いた。


「えと、これは?」

「妻の心得や。ここでは開かんと部屋に持って帰って一人でしっかり見いや。目を背けたらあかんで」

「え」

「房中術や」

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