九 初めての文
その年の秋に頼朝は上洛することとなる。早速、諸国の御家人らに準備に入るように命が下される。幕府内も慌ただしくなった。
そんなある日のこと。
「姫御前、お文よ」
声をかけられて顔を上げる。
誰から?と問おうとしてふと阿波局の言葉を思い出した。
受け取る素振りもいけないんだった。
ヒメコはなんとなく気になりつつ、素知らぬ顔をして受け取らずに通り過ぎた。
「まぁ、お高くとまっちゃって、何様のつもりかしら」
そんな声が聞こえて、申し訳なくも悲しくも思ったりはしたけれど、誰かの誤解を招いたり勘違いされたりするくらいなら初めから受け取らない方がいい。何を言われても仕方ないと腹をくくろう。自分でも嫌な態度だと思うけれど、そういった類いの会話をうまくやりこなせる程器用ではないし、うっかり変なことを口走って新たな面倒を起こすよりは、そういう嫌な人物で通せばいいだけだとそう決めた。
それから数日した早朝、何となく早く目覚めたヒメコは久しぶりに掃除がしたくなって水干を纏うと髪を括って外へと出た。皆が起きる前に戻れば咎められないだろう。
あ。
ヒメコは足を留めた。同時に相手も足を留める。
「お、お早うございます」
ヒメコは頭を下げて挨拶した。
「ああ」
答える低い声。
コシロ兄だった。
奥州征伐に向かう前に共に駿河に行って戻って以来、すれ違いばかりだった。
奥州征伐への出陣と戻りの姿は遠くから見ていたけれど、しっかりと顔を合わせるのは半年振りくらいだろうか。
何と話しかけていいかわからなくて戸惑ったヒメコの前で先に口を開いたのはコシロ兄だった。
「金剛から話を聞いた。佐殿を呼んで来てくれたと。礼を言う」
「あ、あの八重さまのこと、御愁傷様でございます」
コシロ兄はもう一度ああ、と答えた後、小さく済まないと言った。ヒメコは何とも答えられず、ただ頭を下げて立ち去った。
その昼、阿波局がヒメコの部屋を訪れた。
「姫御前、これなんだけど」
手にしているのは白く折り畳まれた文らしき物。
「この文、小四郎兄から姫御前に宛てたものみたい。宛名の字に見覚えがあったので周りの子たちに聞いてみたら、姫御前が受け取らなかったのだって言ってたから、捨てとくわと言って拾って来たの」
「え、コシロ兄の文?」
慌ててその白い文に飛びつく。阿波局はヒメコの頭を撫でると
「ちゃんと文を断ってるのね。偉い、偉い」
そう褒めてくれたが、ヒメコはそれどころでなく文を奪い取るようにして受け取ると部屋の隅へと駆ける。初めてコシロ兄から文を貰った。
高鳴る胸を押さえてハラリと開く。
中には二行の文章。
「留守の間、金剛のことを頼む。喪が明けるまで待っていて欲しい」
そう書いてあった。
「なぁに、小四郎兄ってば用件のみじゃない。それで待てですって?まぁ、偉そうに!」
いつの間に後ろに立って覗き込んでいたのか、阿波局の声にヒメコは思わず悲鳴を上げる。
「もっと色気のある文が書けないものなのかしら。これは酷すぎるでしょ。ちょっと文句言ってくる」
行きかける阿波局を慌てて押し留める。
「こ、これでいいんです!いえ、これがいいんです。だからどうか何も見なかったことにしてください!」
半泣きで阿波局に縋り付く。
文の手渡しを頼んでくれたのは恐らく昨日。
昨日ちゃんと受け取れていたら、今朝会った時に、もっと違うことが言えたのに。そう悔やむが過ぎたことは仕方がない。
待っていて欲しい。
そう書いてある。
それだけで充分だ。
それに多分これで良かったのだ。コシロ兄と金剛君の気持ちを考えたら、今自分は余計な顔を出すべきではない。
ヒメコはコシロ兄からの初めての文の几帳面な字にそっと指を添わせると丁寧に畳み直して大事にしまい込んだ。
でもふと思う。
あれ?京に女官は付き添わないのだろうか?
阿波局に尋ねたら、女たちは御所で留守番と教えてくれた。ヒメコは少しだけホッとした。京は遠い。そしてどこか怖い。
比翼の鳥、連理の枝。
どこまでも付いて行きたい気持ちと、今居る所を離れたくない気持ちとで揺れてしまった自分に気付く。それからアサ姫ならどうするだろうかと思った。
アサ姫ならきっとどこでも付いて行くのを厭わないのではと思い、そっと嘆息する。自分はまだまだだ。そこまでの覚悟がまだ出来ていない。待つばかりだ。自分の不甲斐なさに一頻り落ち込む。
その時、鳥が一声鋭く鳴いた。
当たり前だろ。お前はまだ半人前なんだから。祖母にそう言われた気がして、ヒメコは苦笑した。パンと両頬を叩くと立ち上がる。半人前は仕方ない。今は今出来ることをやるだけ。
ふと、ハカという言葉を思い出した。
祖母が言っていた、女が耐えなければいけない痛みの一つにあった気がするけれど。それを越えられたら一人前になれるのだろうか?
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