八 比翼の鳥、連理の枝。
「何故ここに」
金剛は縁の下から這い出ると今にも泣きそうな顔で言った。
「スケドノはどこ?母上の様子が変なんだ。昨日の朝からずっと眠ってたんだけどさっき突然起きたと思ったら、うわ言のように色々なことを話し出して。それが落ち着いたらまたバタッと倒れて、一言だけ『スケドノ』って。それからピクリとも動かないの。息はしてるんだけどひどく弱々しくて今にも止まってしまいそうで。どうしよう。父上は伊豆に行っていて居なくて藤五が急ぎの使いを出してくれたけどフジもどうしていいかわからないって」
ヒメコは部屋を飛び出し政所へと向かった。中から頼朝の声がするのを確認して声をかける。
「御所様、姫御前です。火急の用にて失礼いたします」
言って戸を開ける。中に居た御家人ら文官らが咎めるような顔でヒメコを睨む。
「今は軍議の真っ最中。声をかけられるまで下がっておれ」
ヒメコは平伏しながらもその場からは動かずに言った。
「御所様、山吹の辺りにご不慮のことあり。仁王君がお迎えにいらしてます。何卒、何卒お運びを」
失笑される。
「山吹?やれやれ軍議をなんと心得る。なんの比喩ですかな。それも仁王の迎えとはまた不吉なことを。軍議の場にそんな戯けたことを申しに参るとは烏滸がましいにも程がある。御所様、幾ら気に入りの女官であっても、このような重要な場に穢れた身を踏み入れさせて何の咎めも無しでは傾国の兆しと謗られまするぞ。長恨歌の例えもございます。ここは厳しく罰すべし。私に処断をお構せ下さいませぬか?」
聞き覚えがある固い声。確か梶原景時。知に秀でた景時は頼朝の気に入りだった。口で敵う者はいないと。でもヒメコは引くわけにいかなかった。どうあってもすぐに頼朝を動かさねばならない。ヒメコは祈った。運命に翻弄され続けた八重姫。金剛君の行末を案じながらの一人の旅行きでは余りに哀し過ぎる。どうにか間に合わせたい。佐殿を立ち会わせてあげたい。金剛の為にも。
その瞬間、背がブルリと震えてスッと首が上がった。
「長恨歌に言う。『天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりたい』。長恨歌は訓戒ではなく愛を謳ったもの。愛する者との死別は余人には測り難い重くて深きもの。どうか御所様、山吹の里までお運びを願います!」
ヒメコは頼朝をまっすぐ見た。
頼朝はヒメコを見返して僅か黙った。それからおもむろに立ち上がって口を開く。
「私も長恨歌は愛の歌と理解している。天地はいつか尽きようが、愛する者を失う悲しみは尽きることがない。わかった。すぐに行く」
「御所様!」
景時の咎めの声に頼朝はそっと口の端を持ち上げた。
「確かに愛に溺れるは謗られようが愛を軽んじるも人として謗られよう。すぐに戻るから先を進めておけ」
そう告げてヒメコの前に立つ。
「仁王はどこだ」
ヒメコは先に立って頼朝を案内する。
頼朝が庭に下りると金剛が駆け寄り、その手を引いた。二人が手を繋いで門を駆け抜けて行くのをヒメコは掌を合わせて見送った。父と子、並んで駆けて行く睦まじいその姿が何故かとても切ない。頼朝の嫡男、万寿の君はいつも乳母夫の比企能員が側に控えていて移動は沢山の御家人に囲まれての輿か馬。普通の父子のように手を繋いで顔を見合わせる場をヒメコは見たことがなかった。それが御曹司というものなのかもしれないが、頼朝にとっても万寿の君にとっても少しだけ寂しさが残りはしないかと、ヒメコは勝手な心配を募らせた。
その夕、八重は亡くなった。頼朝は間に合った。八重は最期に佐殿と金剛に見守られて旅立つことが出来たのだ。ヒメコはホッと胸を撫で下ろしながら天を見上げてそっと呟いた。
「チョウコンカってなんだろう?」
天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりたい。
そう口にした自分に記憶はあるが、そんな言葉がいつ自分に入ったのか全く記憶にない。でもその切ない言葉はいつまでも胸に残った。
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