四 しづやしづ
静御前の舞を見たいと鎌倉中の人が熱望していたが、一番それを望んでいたのは頼朝だったろう。頼朝は歌舞や楽に並々ならぬ興味を持っていた。
ヒメコはあれから静御前の元には通わなかった。八幡姫がねだっても静御前の具合が悪くなってはいけないからもう少し待ちましょうと言い聞かせていた。
そして四月八日。鶴岡八幡宮にて再び静御前母子と対面する。ヒメコは白の上衣に白の袴の巫女姿。静御前は白の上衣に緋袴。上に白い斑点が散らされた桃色の薄物の上衣を重ね、立烏帽子に腰には太刀を帯刀した勇ましくも美麗な姿だった。
「白の袴とは。東国の巫女はんには、それが正装であらしゃいますの?」
問われ、ヒメコはそっと首を傾げた。
「上はいつも白ですが、袴は時々に色を変えております。今日は白が良いと思いましたので」
そう答えたら、磯禅師は口だけで微笑んだ。
「清々しこと。今日は姫さんは?」
ヒメコは廻廊の向こう、庭に向けて少し張り出した桟敷へと目を送った。
「御所様、御台さまとあちらに居らっしゃいます」
「ヒメコはんは舞いはしはるん?」
「いいえ。今日は私は場を祓う為に居るだけです」
手の中の鈴に目を落とす。微かに鈴がチリリと震えた。
やがて頼朝が席につき、足立新三郎がやって来た。
「静御前、御所様がご所望だ。八幡宮へ舞を奉納せよ」
静御前が立ち上がる。膨れたお腹をしっかりと支えて。
足立新三郎の導きに従って静御前は廻廊を巡り、桟敷の前で立ち止まった。八幡宮に向かって軽く立礼をし、桟敷中央頼朝の正面に立つ。
その瞬間、ヒメコは何か違和感を感じた。
シャラ。
手の中の鈴か微かに震える。
音に反応して静御前が此方に目を向けた気がした。でもすぐに袖を翻して動き始める。声が聴こえてくる。
低い、でもよく通る声。漢詩だろうか。それに合わせて皷が節をつけていく。一曲朗々と歌い上げた静御前は、つと口を噤んで空を見上げた。一羽の白い鳥が鶴岡八幡宮の上空を高く北に向かって飛んで行った。
「吉野山」
静御前がゆっくりと次の歌を歌い始めた。
「峯の白雪踏み分けて」
空気がピンと張る。ヒメコは頼朝の気配が変わったのを感じた。手の中の鈴がシャランシャランと鳴り始める。まるで静御前の歌に合わせるように優しく慈しむように共鳴している。ヒメコは握っているだけ。鈴が勝手に震えているのだ。
「入りにし人のあとぞ恋しき」
続いて、アサ姫の緊張がヒメコに伝わってきた。どうして?桟敷の辺りから伝わる気配が皆、緊張している。頼朝の動向を窺っている。気付けば、桟敷の前には御簾が降ろされていた。先程まで上げられていたのに。そこで初めてヒメコは先の静御前の歌の意味に気付く。静御前は義経を恋い慕う歌を歌っていたのだ。
今は別の歌を歌っている。高い声で。綺麗な声だ。でもどこか当たり障りがないように感じる。楽の音は途切れず続いていた。
と、静御前が歌い終わって、ゆらりと御簾に向かった。
あ。
ヒメコは息を呑んだ。静御前の気が変わっている。全身から立ち昇る凄まじいまでの気。
いけない!
ヒメコは咄嗟に鈴を高く持ち上げた。
シャラララ!
一際高く鳴り響く鈴の音。
でも静御前は今度は振り向くことなくまっすぐ頼朝の居る方へと体を向け、ゆっくりと浅く腰を落とし、止まった。
ヒメコは駆け出して御簾の内へと滑り込んだ。最前列に居たアサ姫が驚いた顔でヒメコを見る。
御簾の外から、くぐもった声が聴こえてきた。声をくぐもらせるのは、自らが発する言霊に魂を込める時。その言霊が良いものであろうと悪いものであろうと。静御前のくぐもった声が御簾ごしに突き刺さってくる。
「しずやしず。
しずのおだまき繰り返し。
昔を今になすよしもがな」
ヒメコは御簾の中で立ち上がり、両手を広げて静御前の前に立ちはだかった。
これは呪歌だ。
しず、は、しづ。
「いにしえのしづのおだまき
卑しきもよきも盛りはありこしものを」
元は古今集の和歌だ。
しづは古には神聖な織物だったと祖母が言っていた。でも時と共に蔑まれ、賤しいものとされた。
その歌に自らの名をかけて、静御前は頼朝と鎌倉に呪いをかけようとしていた。
「頼朝よ、あなたも昔は流人だった。この鎌倉も貴方も、今を盛りとして、昔のように落ち滅びてしまえ」と。
ヒメコは体を張って、静御前の呪歌の効力が及ぶのを阻もうとした。
呪いなどかけさない!
シャララララ。
振り上げた手の中の鈴の音が静御前の声と重なる。鈴の細かな振動が静御前の呪歌を呑み込み吸収しようとしていた。
お願い。呪いを跳ね返すのではなく吸収して。包み込んで消してしまって。その聖なる音で。
ヒメコは必死に祈った。
呪いは、もし跳ね返れば、呪った者に倍の力で襲いかかる。
静御前の腹の中には赤子がいるのだ。跳ね返したくなかった。ヒメコは必死で鈴に意識を集中させる。
シャララララ。
涼やかな音が徐々に静まる。と同時に静御前の声も止んだ。
パチン。
軽い音に振り返れば、頼朝は扇を固く握って御簾の向こうの静御前を黙って睨んでいた。
ガシャン!
鈴が落ちる。ヒメコは手首を押さえた。指先がビリビリと痺れていた。
鈴を手に取ろうとした時、頼朝が声を発した。
「八幡宮の神前で反逆者を慕う歌など怪しからん。成敗せよ」
だが、誰かが立ち上がった。
「いけません。静御前は院が寵愛した舞姫。京との今後の為にもお怒りをお収めください」
声を発したのは中原広元。兄弟の弟の方だった。
黙る頼朝を見てアサ姫が口を開いた。
「殿が流人として伊豆にいらした頃、私と契りをかわしましたが、父は都の権威を恐れ、私を殿から引き離そうとしました。でもなお殿を慕い、暗夜に迷い、大雨を凌いで殿の元に辿り着きました」
赤裸々な言葉に場がしんと静まり返る。
「石橋山の戦では殿の生死も分からぬまま、伊豆山で一人魂も消え入るような心地で過ごしました。それは今の静御前が義経殿を想う気持ちと同じ。現れる風情に心寄せ、内なる心を慮ってこそ、まことの幽玄を識る者のなさりようではありませんか?どうぞここはまげてお誉めくださいませ」
アサ姫の言葉に、頼朝は口を引き結んだ。
桟敷にて事の成り行きを見守っていた御家人らがひそひそと声を交わす中、頼朝は奥に下がって行ったが、ややして八幡姫が現れた。その手には衣が乗せられていた。
白の表地に裏は青。卯の花重ねの美しい衣だった。
八幡姫がアサ姫譲りの声で語る。
「御所様からの褒美の品です。まこと天下一の舞姫。見事な出来栄えでした」
衣を手に御簾の外へと出て行く。
磯禅師が褒美の衣を受け取り、二人は足立新三郎の後をついて下がって行った。
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