三 静なる白拍子

翌日からヒメコと八幡姫は毎日静御前の元に通った。

だが、新三郎が何度取り次いでくれても静御前は具合が悪いと言って会ってくれない。

通い始めて何日経ったか、やっと中に通された。でも現れたのは母君だった。母君もまたきっちりとした格好で背筋をしゃんと伸ばして座って二人を迎えた。

「磯禅師言います。娘に代わってお相手さして貰います」

「あの、静御前様は」

「雨乞いについて巫女はんに話せることはないよって。えろぅ強情で堪忍してやっとぉくれやす。ただ舞についてなら、この私でも幾らかお役に立つやもしれんと娘の代わりに出張ってきました。年寄りですんまへんが、よろしゅう」

言って軽く目線を落とす。


ヒメコは磯禅師と対峙した瞬間、祖母のようだと思った。身から溢れる圧倒的な気の力。何年、何十年と心と技を磨き続けた者だけが放つ鋭い刃のような手練感が重くのしかかってくる。


ヒメコは床に額を付けて礼をして、快い感情がゾクゾクと背を上っていくのを味わった。


「ありがとうございます。何卒宜しくお願いいたします」

顔を上げたら、磯禅師は鋭い目でヒメコを見下ろしていた。閉じた扇を右の脇に置いて、さて、と口を開く。

「雨乞いの舞など、そないな形のものはあらしまへん。ただ、うちが娘たちに口を酸っぽぅして言うんは、場に立ったら溶けろゆぅことだけ」

「溶けろ?」

「風に水に人に鳥に。その場の全てに溶けて一体化しろゆぅことですわ」

「風と一体化」

「ヒメコはぼんやり繰り返す。

「動と静なら、要となるのは静。やから娘にはしずと名を付けました。動から静の狭間はこの世とあの世との境。その刹那に自ら溶けて全てと一体化でけたら、人も神も皆等しゅう揺り動かされる。それを体現してやっと一人前。うちは母にそう教わりました。それをしずにも教えただけ。今のあんさんに言えるんはこれだけどす。さぁ、帰っとぉくれやす」

磯禅師はそう言って立ち上がり、入り口の戸を開け放った。

「ありがとうございました」

ヒメコは深く頭を下げ、また上げて磯禅師を見た。

「精進いたします」

奥の部屋で誰かがそっと動く気配がした。


動から静の狭間の刹那。


足立屋敷を離れてから、ヒメコは青い深い天を見上げた。

八幡姫が隣に並ぶ。

「どういうこと?雨乞いの舞はわかったの?」

黙ってそっと微笑み返した後、ヒメコは振り返って、固く閉じられた戸に向かってもう一度深々とお辞儀をした。

「ありがとうございます」

まだわからない。

わかるわけもない。

でもとても大切なものをいただいた。

胸の奥にしまっておこう。たまに取り出してまた考えよう。そのうちにしっくりとくる自分になる筈だから。

「ご縁をありがとうございます」

天と地と足立屋敷にそっと手を合わせ、遠い比企にいる祖母の顔を思い浮かべながら、ヒメコは足取り軽く小御所へと戻った。




四月に入ってすぐのこと、アサ姫が怒って頼朝に詰め寄った。

「私が静御前の舞を見たいと言ってることになってるのはどういうわけ?私がいつそんなことを望んだ?勝手なことを吹聴しないでちょうだい!」

アサ姫の剣幕に頼朝が後退る。

「いや、この所そなたの気分があまり優れないようだから、舞でも見たら気がまぎれるかと思ったんだ」

「私を言い訳にするのはやめてちょうだい!静御前の舞を見たいのは貴方でしょう!」

「いやいや、私だけでなく御家人共も家人達も鎌倉に住まう者ら皆だ。皆が皆、見せてくれと煩くてな。確かになかなか見れぬものだし、御家人達の楽の腕前も試す良い機会になるかと」

「それで四月八日に祭事を行なうと?」

「そうだ。釈迦尊の降誕日だからな」

「貴方の誕生日でもあるわよね」

「それは偶然だ。とにかくその日は花祭りで皆にも甘茶を振る舞う。席を用意するから皆で興じようではないか。姫も参列するそうだ」

ヒメコは驚いて八幡姫を見る。八幡姫は今までそういう席に参加しないで来たのに。

「姫を持ち出して来ても私は許さないからね。ああ、もう、腹立たしい!」

アサ姫はもう一度頼朝を睨んでから足音高く部屋を出て行った。頼朝が大きく息を吐く。

「駄目か。喜ぶかと思ったんだが」

ヒメコはチラと頼朝を見た。

「大進局が御所様のお子を産んだそうですね」

頼朝は口をへの字に曲げた。大進局は御所の女官だったが、先頃頼朝の子を産んだと阿波局が言っていた。頼朝はパチンと扇を閉じた。

「それよ。御台の嫉妬を恐れて乳母のなり手がいない。今は母子とも長門景遠の所に預けているが、その内に仏門に入れるしかないだろうな」

ヒメコは、はぁと曖昧に頷いた。

「アサの嫉妬にも困ったものだ。側室を持つのは京では当たり前なのに」

「ここは京ではありませんから」

淡白に返す。

「だが、私は鎌倉の主だぞ。そうそう妻に遠慮していては立場というものがなぁ」

ボヤく頼朝にヒメコはそっと笑った。

「龍の姫だからおやめになった方が良いのではと申し上げましたのに、却って良いと笑い飛ばされたのは佐殿ではありませんか」

言えば、頼朝は苦い顔をした。

「まぁな。アサのおかげで色々助かっているのは確かだ」

「今回のことも御台さまの名をお出しになっての催しごと。何か美味しいものでも用意してご機嫌を取って参りましょうか」

ヒメコがそう言ったら、頼朝は、いや、と首を横に振った。

「それが今は何も食べたくないと拒否するのだ。体が悪いのかと尋ねても答えず臥せっている。薬師も祈祷も遠ざけて、下手に呼ぼうものなら怒鳴る始末。アサは病ではないのだろうか?」

悲壮な顔で頼朝に問われ、ヒメコはそう言えばと思い返す。この所、小御所にもまったく顔を出さず、阿波局の話では臥せってばかりとのこと。


ヒメコはそっと御所内のアサ姫の気配を辿ってみた。そして気付く。アサ姫の気配の内側にもう一つの柔らかな気配があることを。

「もしや」

言いかけてヒメコは口を噤んだ。

これは、おいそれとは口に出来ない。とりあえず急ぎ公文所へと向かう。

「中原殿は」

言ってから、中原親能と広元、中原は兄弟二人いたことを思い出す。

「おや、姫御前。そろそろ現れる頃かと思って待ってましたぞ」

立ち上がったのは兄の波中太。ヒメコはホッとして廊へ出る。

「あの、御台さまのことで」

言いかけたら、波中太はニマッと笑った。

「だよな?次こそ私の待っていた姫であろう」

やはり、この山伏は気付いていたのだ。そう言えば、万寿の君の時に男児だと残念がっていたことを思い出す。ということは姫君。

「どうしましょう?御所様や御台さまにお話しした方がいいのでしょうか?」

問えば、波中太は、いいやと首を横に振った。

「姫御前には、また御台さまを見張って無理をさせぬよう頼む」

そう言って元の席に戻ろうとする。

「内緒にしておくのですか?」

「ああ、まだ平気だろう。腹が目立ってきて自覚した様子が見えたらまた教えてくれ。騒ぎにしたくない」

言って、奥に座る中原広元の方に目配せをした。何か考えがあるのだろう。

ヒメコは頷いた。確かに御台所が懐妊したと分かったら、鎌倉は騒がしくなる。

ヒメコはひたすら口をつぐみ、アサ姫の懐妊してる子が姫ならば、静御前の子も姫であれと祈った。


そして、とうとう四月八日になる。


頼朝は鶴岡八幡宮に詣で、そこに用意されていた席に座ると静御前を廻廊に召した。

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