三 負けない覚悟
ヒメコは頭を下げた。
「有り難う御座います」
義高は、いいえと首を横に振った。
「私の方こそです。有り難う御座います。今までのことも。そしてこれからのことも」
これからのこと。八幡姫のことだ。ヒメコは強く頷いた。
その時、一人の少年が戸を開けて入って来た。八幡姫が眠りかかった時に支えてくれた少年。
「幸氏、私は今晩鎌倉を出る。そなた達は連れて行けない。済まぬ」
そう言って頭を下げる義高に、幸氏は跪き、床に手をついて答えた。
「若、ご武運を。
後のことはどうぞお任せください」
その宵、ヒメコは侍女姿で包みを抱えると、同じように侍女姿になった義高を伴って御所を抜けた。
「ご苦労様です」
門番に声をかけて通る。通い慣れているのに今日は喉が苦しくなる。声が震えなかったか気にしながら門をくぐり、江間の屋敷に向かった。
果たして江間の屋敷の脇に馬が一頭待っていた。鞍も付けず、轡だけ嚙まされた大きな黒い馬。蹄は布で覆われている。その手綱を引いていたのはコシロ兄だった。
「師匠」
頭に被っていた袿を脱いで声をかけた義高に、コシロ兄は一言
「負けるな」
そう言った。
「それは死ぬなということですか?」
問い返しにコシロ兄は首を横に振った。
「死は負けではない。負けるとは、信念を貫けずに己の道を踏み外すことだと私は思っている」
義高は頷いて、道、と繰り返した。
「わかりました。負けません。有難う御座いました」
コシロ兄が馬の手綱を義高に渡した。
「また勝負しよう」
義高は笑顔で頷き、ヒメコを見た。
「姫をお願いします。叶うならもう少し共に居て姫の成長を見守りたかった」
ヒメコは抱えていた包みを義高に渡した。着物と小刀、当座の食糧などが入っていた。
「姫もそうお考えです。どうか逃げ延びて下さい。姫の為にも」
義高は微笑んで頷くと馬の腹を蹴った。
音もなく駆け去って行く黒い馬はすぐに闇に溶けた。
事は翌晩に露見した。八幡姫が名越から帰ってきたのとほぼ同時だった。
義高の不在がバレないように身代わりとして双六を打ち、床に伏していた海野幸氏は縄で拘束されて引っ立てられた。その幸氏に取り縋って八幡姫が叫ぶ。
「幸氏、義高様は?義高様はどこなの?」
でも幸氏は答えずに男たちに引っ張って行かれる。
頼朝は血相を変え、大声で命を下した。
「義高をすぐに追え。追って討ち取って参れ。何としても逃がすな!従者らも連れて来て厳しく尋問せよ!殺しても構わぬ。決して義高を逃がしてはならぬ!間違いなく首を持ち帰れ!」
御所の南庭に控える男達に檄を飛ばす頼朝。八幡姫は耳を塞いで小さく小さく縮こまっていた。
その時、頼朝以上の大声で叫んだのはアサ姫だった。
「頼朝殿!声を落としなされ!姫がここに居るのになんという酷いことを!たかが子ども一人逃げたくらいでそんなに狼狽えるなど、みっともないとは思われないのか!それでも貴方は鎌倉殿か!」
名を呼ばれて罵倒され、頼朝の顔が真っ赤になる。だが部屋の隅で震える八幡姫を見て、唇を引き結ぶと何も言い返さずに足音荒く奥の部屋へと去って行った。
ヒメコは八幡姫の元に駆け寄る。八幡姫はアサ姫に抱かれて震えていたが、ヒメコの顔を見ると母の腕から抜け出てヒメコに縋り付いてきた。震える小さな声でヒメコに問うてくる。
「ねえ、義高様は?侍女の格好で逃げたと聞いたわ。ヒメコが逃がしたのでしょう?義高様はどこ?」
ヒメコは八幡姫を抱きとめて立ち上がらせた。
「姫さま、お部屋に戻りましょう」
足をもつれさせながら何とか歩く八幡姫を支えて部屋に戻る。
落ち着いて座らせてからそっと告げた。
「義高様は馬でお逃げになりました」
「何故?ここで待っていてと言ったのに」
「木曽の残党が義高様を担ぎ上げようとしたので、義高様のお命が危なくなりました。だから御台さまが逃がして下さったのです」
「なら、義高様はご無事なのね?」
ヒメコは黙った。
あの頼朝の様子では、草の根分けてでも義高を見つけようとするだろう。追っ手の武士達に見つかったら、とても太刀打ち出来るものではない。でも義高が乗っていったのは大きな黒い馬だった。あの馬ならもしかしたら逃げ果せるかも知れない。でも。
「わかりません」
ヒメコは正直に答えた。八幡姫の喉がひっと音を立てる。
「義高様は武士の子。ご覚悟を決めたお顔でここを出て行かれました」
途端、姫の眉が吊り上がった。
「覚悟?死ぬ覚悟だと言うの?」
「いいえ。負けないという強い決意の見えるお顔でした」
「負けない覚悟?」
ヒメコは頷いた。
「ええ。義高様は江間殿に碁で勝ちましたでしょう?。だからきっと今回も負けません。そう信じて待ちましょう」
心をこめてそう伝えるが、八幡姫は返事も頷きもせず、ただ前を睨み据えていた。
何も出来ず、祈りながらじっと数日を過ごす。
ふと八幡姫が立ち上がった。
「ユキの様子を見に行かなくては」
フラフラとしているので手を貸そうとしたら、要らないと押し退けられた。
厩では茶鷲とユキが忙しなく足踏みをしていた。
入って来た八幡姫の姿を見た途端、茶鷲が前足で立ち上がり、後ろ足で柵を蹴り飛ばす。
ガラガラガラッ!
物凄い音がして厩の中は砂煙に覆われた。
「姫さま!」
八幡姫の手を引いて外に逃げようとしたが、八幡姫は崩れた木材を足場に茶鷲のたてがみに手を伸ばし、その背へとひらりと跨った。
「茶鷲!義高様を助けに行きましょう!」
八幡姫の声に茶鷲はいななき、壊れかけた厩を飛び出して行く。
「姫さま、待って。行ってはなりません!」
ヒメコの叫びは馬の蹄の音にかき消された。でも小御所の門は常に閉まっている。駆け寄る馬を見て門番が慌てて戸を開けようとするのをヒメコは必死の身振りで止めた。
「駄目、開けてはなりません!」
門番らは戸の前に並び、姫の行く手を阻んでくれた。でもホッとしたヒメコの前で茶鷲が首を横に向ける。ヒメコはハッとそちらに目を送った。
御所の正門だ。あちらは馬の出入りが多い為、日中は殆ど空いている。
だが、こちらの騒ぎを聞きつけたのか、門番らは門を閉め始めた。安堵したヒメコの耳に八幡姫の声が届いた。
「門を開けよ!私は八幡!源頼朝の一の姫、すぐに開門せよ!」
よく通る声。アサ姫そっくりの。
門番らは突き動かされたように慌てて門を開けた。茶色い大きな馬が通り抜けて行く。そしてそれに続く白い小柄な馬。
「ユキ!」
ヒメコは必死で走った。
いけない。
行ってはいけない。
八幡姫も。ユキも。
ヒメコは後を追って門の外へ出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます