ニ ずさない

それから少しした四月の朝。ヒメコはアサ姫に呼ばれた。アサ姫はヒメコを側近くに呼んで耳打ちした。

「義高殿の斬首が明日と決まりました」

ヒメコは息を呑む。

「斬首?どうして今頃になって。それも明日だなんて何故そんな急に」

義仲の死より既に三ヶ月経っていた。このまま義高は婿として受け入れられるのではないかと期待していた矢先だった。

「不審な男女が御所内で見つかったの。小四郎が後をつけた所、夫婦で下働きとして御所内に入り込んでいたようで、それらの会話を聞いて木曽の者だとわかったの。彼らを尋問にかけた所、木曽の残党らが集まって義高殿を旗印に蜂起しようとしていることが判明したので斬首と決まったのよ」

「木曽の言葉?」

アサ姫は頷いた。

「ずさない、だそうよ。

ずさない。

確かに義高はそう言っていた。コシロ兄も聞いていた。

でも。

ヒメコは胸が冷えていくのを感じる。笑ってたのに。お国言葉は出てしまうものだと。なのに。

ヒメコは震える自分の指先をじっとを見つめる。

わかってる。コシロ兄は御所を守る任を負っている。

それでも。

溢れそうな涙を必死で堪える。

どうにか出来ないのか。

助ける方法はないのか。

でも頭がぐるぐるするばかりでどうにもならない。アサ姫は続けた。

「姫には勿論こんなこと話せない。とにかく今日中に義高殿を御所から逃がさないと。ヒメコ、今晩、義高殿に女の格好をさせて江間の屋敷前まで連れて行ってくれる?

「江間の屋敷?」

「その辺りに馬を用意しておくように小四郎に言ってあります」

ヒメコは深く頷いた。

「でも姫は?」

姫は私が夕方までに何とかします。だからお願い。御所内で引っ立てられる所なんか見せたくない。それに何よりあんな幼い子をむざむざ殺させたくないわ」

アサ姫は侍女を呼ぶと義高を呼んでくるように命じた。義高はすぐにやって来た。八幡姫もくっ付いてやってくる。

「母さま、どうされたの?折角、双六で良い目が出た所だったのに」

八幡姫は頬を膨らませてアサ姫に文句を言う。アサ姫はやんわりと微笑んだ。

「まあ、それはごめんなさい。でもいい報せだから早く教えたかったのよ。あなたの馬のユキが身籠っているようなの」

途端、八幡姫は立ち上がって外へと駆け出して行った。

それを追おうとした義高を止めて、アサ姫はそっと義高に一言二言囁いた。義高の顔色が変わる。アサ姫はヒメコを見て、また義高に短く何かを告げた。義高もヒメコを見る。それから口元を引き締めた。

「わかりました。万事仰る通りにします。ただ一つ。幸氏や重隆らはどうなりますか?」

「彼らは私が守ります。とにかくあなたは今晩逃げて」

義高は頷くとその場に跪いて頭を下げた。

「御台さまのご厚意に深謝いたします」

それから立ち上がり、柔らかく微笑んだ。

「では、私もユキの所に行って参ります。姫が待っているでしょうから」

そう言って穏やかに部屋を出て行く。ヒメコもアサ姫に頭を下げ、義高に続いた。

厩では八幡姫が笑顔で義高を迎えていた。

「最近、食が細くなったと心配していたのよ。子馬が産まれるのね。茶鷲みたいな大きな強い子が生まれるといいな」

「ユキのように美しい子もいいよ。楽しみだね」

ふんわりと微笑む。愛らしい二人の姿。でも明日からそれは見られなくなるのだ。ヒメコは奥歯を噛み締め、涙を堪えて微笑み合う二人の姿を目に焼き付けた。

「では、双六の続きをやりに戻ろうか」

義高が差し伸べた手を八幡姫は笑顔で握り、二人は睦まじく部屋に入って行く。

どうか無事で。義高殿が無事で逃げられますよう。そしていつの日かまた二人が逢えますよう。ヒメコは天に祈った。


その午後、アサ姫が慌ただしく出かけた。

「姫、名越に行きますよ」

アサ姫が八幡姫を呼びに来る。

「名越?どうして?どうかされたの?」

「お祖父さまが私たちをお呼びなの。さ、行きましょう」

でも八幡姫は首を横に振った。

「嫌、行かないわ。名越は嫌い」

「まぁ、どうして?」

「あそこに行くと、その後に何か嫌なことが起きるのだもの」

アサ姫はヒメコを見る。

確かに姫に何か隠したいことがある時にアサ姫は名越に身を寄せていた。

「でもお祖父さまが急いでお呼びなのよ。きっと珍しい美味しいものか絵巻か、姫が驚くようなものがあるのだわ。さ、行きましょう」

アサ姫は八幡姫の手を引っ張る。だが八幡姫はその手を振り払おうとした。

「嫌ったら嫌なの!」

アサ姫が困ってヒメコを見た時、

「八幡」

義高が声をあげた。

八幡姫がビクッと身体を震わせる。

ヒメコも驚いて義高を見た。義高は八幡姫のことをいつも「姫」とだけ呼んでいた。

義高は碁盤の前からそっと立ち上がると八幡姫の前に立ち、姫の頭の上に手を乗せる。姫は義高の手にしがみつくが、義高はその手を下ろして八幡姫の両肩をしっかり掴んだ。

「母上について名越に行っておいで。それが今の姫のお仕事だよ」

「お仕事?お仕事って何?」

「すべき事だよ。人は皆、すべき事を持っている。今の私がここに居るように姫は姫の今すべき事をしなくては」

「それが名越に行く事なの?」

義高は頷いた。

「名越は姫の祖父上の館じゃないか。八幡は武士の娘だろう?親に従い父祖を大切にするのは武士のつとめだよ」

「でも」

八幡姫は首を横に振る。義高は姫を置いて碁盤の前に座り直すと、顔だけ八幡姫に向けた。

「名越で珍しい物を見たらその話を聞かせておくれ。ユキの様子は私が見ておくからね。安心して行っておいで」

そう言って、ふんわりと微笑む。

ーー行っておいで。

姫がお昼寝に行く時と同じ優しい笑顔。

「さ、行きますよ」

アサ姫が声をかけて歩き出す。八幡姫は返事をして行きかけたが、戸の前で足を止めると駆け戻って義高の背に抱きついた。その勢いで、ジャラと石が床に散らばる。

「ご、ごめんなさい」

八幡姫は慌ててそれを拾ったが、どこに戻していいかわからない。とにかく拾い集めようとする。義高が姫の手を止めた。

「ずさない。ほら、御台様がお待ちだよ。石を踏んで怪我をしないようにね。気を付けて行っておいで」

促されて八幡姫は足元を気にしながら後ずさる。

「すぐ戻ります。戻るからここで待っていてね」

叫ぶように言って駆け出した。

義高はその足音が聞こえなくなるまで黙って見送っていた。

それが二人が過ごした最後のひと時となった。

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