ニ 不穏
「九郎殿のお母君は平相国殿の妾と伺いました」
誰かが声を上げた。目つきの鋭い、顎の尖った男。誰だろう?北条館では見た事がない。
「元は雑仕女だったのを、その幼く美しい容貌を院が気に入って召し上げた後、御所様のお父君に下賜され、その後、相国の妾となったとか。幼い顔がお好みなのは母恋しさですかな」
あからさまな嫌みに、場がサッと静まる。
「母を愚弄するか!何者だ!名乗れ!」
「梶原平三景時と申す。母君を愚弄したわけではありませぬ。貴殿が顔が幼いのが好みなどと、場を弁えぬ恥知らずな物言いをなさるので諌めたかったまで。ここは遊女宿ではなく鎌倉の御所。そして本日は目出度い正月の祝いの席。無礼講の場ではないのですぞ」
九郎が唇を噛み締めて梶原景時を睨みすえる。御所がパンパンと手を打った。
「景時の申す通りだ。九郎、お前は私の弟だが、ここに参列する諸将より若輩者。立場をわきまえて口を慎め」
厳しい声に、九郎は目を赤くして御所を睨んだ。御所は盃を上に掲げて続けた。
「皆々、済まない。九郎は酒に弱いのだ。私に免じて許してくれ。さあ、飲み直そう」
男たちは素直に酒をあおり始める。でも九郎はムッツリと黙って顔を俯かせたまま。ヒメコは気の毒になって声をかけた。
「お水でもお持ちしましょうか?」
九郎はパッと顔を上げてヒメコを見ると
「俺、酒は強いんだ。こんなの水と同じさ」
ヒメコの持っていた瓶子を奪って、そのまま口をつけて呑み始める。
「はい、おかわり」
空になった瓶子を渡され、次の瓶子を渡そうとした時、ガチャンという音と共に、誰かがわっと声を上げた。
「小四郎、この粗忽者!濡れたではないか!」
北条時政が立ち上がって、隣のコシロ兄を睨んでいた。
「申し訳ありません。呑み過ぎたようです」
ヒメコは慌てて駆け付けて、時政の濡れた直垂を乾いた布ではたく。だが時政はヒメコを払いのけると
「よい!下がれ。御所様、私は先に失礼させていただきますぞ」
そう言って足音荒く広間を出て行った。
ヒメコが濡れた床を拭いていたら
「早く下がれ。もう顔を出すな」
低い声にそう言われた。コシロ兄だった。
「でも呑み過ぎたって。大丈夫ですか?」
問うが、ジロリと睨まれ
「いいから黙って下がれ!」
小声ながら勢いのある声で命令されて、ヒメコはコクコクと頷くと慌てて広間を辞した。
廊に出たら三の姫が酒が入っているらしい瓶子を沢山盆に乗せて中に入ろうとしていた。
「ヒメコ様、手伝ってくれる?」
請われるが、もう顔を出すなと言われたので戻ることが出来ない。
「ごめんなさい。ちょっと気分が悪いので休んできます」
そう言って逃げ出す。女官達の控えの間に戻って、その片隅の壁にもたれて息をついた。
まだ胸がドキドキしている。九郎と梶原景時の言い合いも恐ろしかったし、絡まれるのを逃げるのも容易ではない。女官は大変だと改めて思った。
朝に配られた美しい着物。他の女官達は歓声をあげたが、ヒメコは別段何とも思わなかった。元々着る物や髪の手入れにもあまり興味なかったし、本当は化粧もしたくなかった。噂話や他愛ないお喋りも苦手だから出来れば一人でいたいと思う。自分はあまり女官向きではないのだろう。それとも皆そうなのだろうか?楽しくお喋りしているように見えるけど、それは仕事だから我慢しているのだろうか?ならば自分もそうしなければならないのだろう。比企の娘として頼朝に仕えるには、やはり女官でいるしかないのだから。
暫くしたら三の姫が控えの間に戻ってきた。他の女官達も揃った前で三の姫が声を上げた。
「皆さん、御所様が、女官達はもう休めと仰って下さったから、今日はおしまいよ。お疲れさま。後でご褒美に甘いものを分けて下さるそうだからお部屋に持って行くわね」
女達は歓声を上げて着物が皺にならないようにさっさと脱ぐと、その場に座り込んで早速お喋りを始めた。
「ねぇ、どの方が良かった?御所様の弟君の九郎様ってなかなかいい男じゃない?」
「えー、背が小さくてお喋りな男って私は苦手。それよりその兄君の範頼様とか純朴そうで可愛いと思うんだけど」
「そう?断然足利様でしょ。御所様と仲も良いし、何より落ち着いてて素敵」
「畠山様も男らしくて素敵だったわよね」
「でも馬が恋人って聞いたわよ」
「えっ、何それ。やだぁ」
盛り上がる女官達に巻き込まれないよう、ヒメコはそろそろと部屋の奥の物陰に隠れた。
だが三の姫に見つかる。
「姫御前、気分は治った?大丈夫?」
「あ、阿波局様、お陰様で治りました。有難うございます」
三の姫は阿波局という名で、いつの間にか女官頭のような立場になっていた。御台所の妹で口も立ち、人の間に入るのが得意なので適任だったのだろう。
他の女官達が賑やかに話している中、三の姫はそっとヒメコに近付き、探る目で問うた。
「中で何があったの?」
思い出す。北条時政に言われて御所内を探るのが阿波局の仕事だった。
「いえ、大したことは何も。ただ、コシロ兄、いえ、江間殿が呑み過ぎて瓶子を倒し、それが北条殿のお召し物にかかったので、北条殿がお怒りになって下がられただけです」
途端、三の姫はヒメコの腕を掴んで立ち上がった。
「さ、私達も下がりましょ。ああ、疲れたー。では皆様、後で甘いの持って行くからね」
そう言って、ヒメコの部屋に入る。
通常の女官は大部屋だが、ヒメコは特別に一人の部屋を与えられていた。阿波局は二の姫、四の姫と一緒だったが、大部屋にも自分の場を確保して、女達の噂話にも耳を澄ましているようだった。
ヒメコの部屋に落ち着き、三の姫は改めてその時の状況をヒメコに話させたが、聞き終えた途端、笑い出した。
「小四郎兄が酔うなんてありえないわ。大分前、大姉上が自分が呑むのに小四郎兄を付き合わせてるの見てたけど、あれはウワバミよ。酒を酒と思ってないの。水と同じ。顔にも出たことないし。美味いと思わないから酒が可哀想だ。必要な時以外は呑まないって前にそう言ってたもの」
「酒が可哀想?でも、呑みすぎたと言って瓶子を倒して」
「それ、わざと倒したのよ。前にもやってたもの。父が連れて来た厄介な絡み酒の客が隣に座った時。面倒だったんでしょうね。盛大に零して逃げてったわ」
はあ、とヒメコは頷いた。その横で三の姫はまだ笑っている。
「じゃあ何で瓶子を?」
すると三の姫はヒメコの腕に擦り寄った
「そんなのヒメコ様を逃がす為に決まってるじゃない」
「え、逃がす?」
そうよ。ほらね、やっぱり小四郎兄もヒメコ様のこと好きなのよ。あの坊っちゃん坊っちゃんした九郎殿がヒメコ様に絡んでたから、さて、皆どうするかなぁって、私あの辺りにずっと目を配ってたのよ。佐々木の四郎も苛々してたけど、血統的に御所の異母弟にはさすがに歯向かえないものね。梶原殿は馬鹿がつくくらい真面目って話だから九郎殿みたいな軽薄な人物は苦手でその言動が許せなかったってだけでしょうけど。
さてさて、これからどうなるのかしら?私、楽しみだわぁ」
三の姫は至極愉しげにそう言うと去って行った。
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