六 厩
「馬が落ち着いて食餌出来ない。ここはいいから去れ」
低い声に命じられ、ハッと顔を上げる。紺鼠の直垂に脛巾姿のコシロ兄がムッツリ顔でヒメコを睨んでいた。
「あ、ごめんなさい!ご、ご無事でお戻りだったのですね」
突然のことで言葉が出ず、箒を強く握りしめる。
途端、ピキッと嫌な音がした。目を落とせば箒の柄が縦に割れていた。ギョッとする。おまけになんだか掌が痛い。
「掌をゆっくりと開け」
言われ、握りしめていた柄から恐る恐る力を抜く。左の掌に血が滲んでいた。
「まだ掃除してるのか」
「あ、はい。掃除していると心が落ち着くので」
落ち込みながらそう答えたら、ふうんと返された。馬鹿にするでもなく非難するでもない淡々とした口調は変わらない。
コシロ兄はヒメコの左手を取って日にかざすと両手の指で傷口を開くようにしてじっと見つめた。それからサッと放す。
「破片は残ってないと思うが、念のため誰かによく見て貰え」
そう言ってヒメコから竹箒を取り上げ、さっさと歩き去ろうとする。
「あの!」
慌てて声をかける。コシロ兄は足を留めて振り返った。
「お、お帰りなさいませ」
言って頭を下げる。コシロ兄は、ああと一言だけ答えるとまた踵を返して去って行った。
はぁ、と大きく息を吐く。まだ胸が大きく波打っている。久々だからだろうか。声を聞いたのはどのくらいぶりだろう?山木攻めの少し前にこの水干を譲り受けて以来かも知れない。耳に残る低い声を思い返してぼんやり立っていたら、咳払いが聞こえた。驚いて振り返れば佐々木四郎高綱がこちらを見ていた。
「あーあ。こっちには全く気付いてくれないんだもんな」
当て擦るように言われて、慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい。ちょっと驚いてしまって」
掌を振って誤魔化そうとしたら、その左手を取られた。
「本当、驚いたぜ。竹を握り潰すんだもんな。ほら、見せてみろよ。俺、目はいいからさ」
そう言ってヒメコの掌の傷口を丹念に見てくれる。
「うん、竹は残ってねぇな。後はしっかり洗って薬草貼っておけよ」
「え、四郎兄は薬草に詳しいの?」
驚いて問い返したら四郎は頷いた。
「ほんの少しだけな。昔、寺に入れられそうになったんだけど坊主になるのは嫌だから逃げ出したんだ。それから父の元に向かう途中で会った僧と少しだけ一緒に旅をして、その途中で色々教えて貰った」
「へえ、お坊様に」
相槌を打って四郎の横顔を見たヒメコは、その顔が冴えないのに気付く。
「どうかしました?」
声をかけたら、四郎は空を見上げて暫く雲を眺めていたが、突然プルプルと首を横に振ってヒメコの横にしゃがみ込んだ。
「いや、何つーかさ。それで京から父の居る相模に着くまで色々あったんだけど、今思い出すとひどいこととか恥ずかしいこととか沢山しちまったんだよな。あれ、取り消せないかなって」
そうして、ハアと大きな溜め息をつく。ヒメコは何も言えず、ただその隣で空を見上げていた。
その時、ドルルルルという地響きにも似た物凄い音が聴こえた。先程コシロ兄が出て来た建物からだった。厩の中で馬がいなないたのだろうか。それにしても大きな音。
佐々木四郎はパッと立ち上がるとヒメコの手を取った。
「なんてな。暗くしてごめん。お詫びにすげーの見せてやるよ。驚くぜ?」
厩へと引っ張られる。
「いえ、私はすげーのには興味ありませんから」
そう言って逃げようとするも、ズルズルと引きずられて厩の入り口を跨いでしまう。中には数え切れないくらい多くの馬がいた。コシロ兄が言った通り食餌中だったようで、モシャモシャと草を食んでいる。
「わぁ」
興味ないと言った癖に思わず感嘆の声をあげてしまう。
中に一頭、一際美しい馬が居たのだ。黒光りする毛並の所々に白い斑点が浮かんでいる。
「な、すげーだろ?安房で千葉殿、上総殿と合流した後、陸路で鎌倉へ向かう途中に大きな池の畔で休んでいたら、いきなりこの馬が現れたんだ。野馬だし、余りに大きいもんだから皆驚いちまって捕らえるのに手こずったんだけど、俺ら兄弟で行く手を阻んで追い込んで、最後は根比べよ。嚙みつこうと歯をガチガチ鳴らしてくるのを必死で抑え込んだんだ。俺はこいつの耳を引っ掴んでたんだけどさ。ふと思いついちまって試したんだ」
「試したって何を?」
問い返したら四郎はニヤッと笑った。
「馬の耳に念仏って本当かなってさ。で、般若心経を大声ですげー速さで耳元で叫んでやったの。そしたらこいつ急に大人しくなっちまって。それからゆっくり鎌倉まで連れて来れたってわけ。馬の耳に念仏って本当なんだな」
『馬の耳に念仏』ってそういう意味だったっけと思ったが、ヒメコは微笑んで頷いた。馬だってたまには念仏を聞いたっていいのではないか。でもふと思う。耳元で叫んだら大人しくなったということは、もしや耳が聞こえなくなって馬も驚いたのではないだろうか?ほんの少し心配になる。
ヒメコは恐る恐るその黒光りする馬に話しかけた。
「大丈夫?お耳聞こえてる?さっきは食餌を邪魔してごめんね」
そっと声をかけたら、白い斑点のあるその馬はピクンと耳を立ててヒメコの方を振り返った。その時、同時に西日が差し込んできて厩の中が明るくなる。黒光りしていたその毛は実は青く、薄灰色がかった綺麗な色をしていた。
「綺麗!夜空の星みたい」
「その通り!佐殿もすげー感動してさ。池月って名を付けたんだぜ。本当に格好いいよな。こんな逞しい馬、俺初めて見たよ。いいなぁ、欲しいなぁ」
子どものように目を輝かせて池月を眺める四郎。男の人はやっぱり馬が好きなんだなと微笑ましく思う。コシロ兄も馬にはいつも優しい。
「そう言えばさ。さっき、四郎兄って呼んでくれたろ」
そう言われたら口走ってしまったかもしれない。
「あ、五郎君がそう呼んでいたので、つられてつい」
四郎はニイと口の端を上げた。
「ちっと格上げだな」
四郎は厩の奥の方にいた小柄な馬を引き出してきた。
「じゃ、これから渋谷殿の所に戻るからまたな」
そう言って馬の背にヒラリと跨る。
「傷口には弟切草の葉と茎をよく揉んで、その汁をつけとくといいぜ。試してみな」
そう言い残して颯爽と駆け去っていった。
「有難うございます!」
慌てて礼を言ったが、顔を上げた時には四郎の姿はもう見えなくなっていた。
「いいなぁ」
ヒメコはそっと呟いた。男たちは皆、楽しそうに馬に乗って駆けて行く。自分も馬に乗れたら比企庄でもどこでも自由に行けるのだろうか?
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