四 幼心
それはまだ言葉も覚束ないくらい小さかった頃のこと。
「佐殿だよ。ご挨拶なさい」
比企の邸の広間に入ってきた佐殿に、ヒメコは駆け寄って抱きつくと、
「ヒミカ!あたしヒミカよ。名を呼んで!」
しつこくそうせがんだらしい。ヒメコ自身にその記憶は残っていない。でも、後から祖母はその話を持ち出してきてはヒメコをからかい、母のことをなじったので、あまり思い出したくなかったのだ。
「やれやれ、この幼さで媚びを売って真名まで渡すとは何てはしたない子なんだろうとヤキモキしたもんだよ。一体誰に似たんだろうね」
祖母にとっては他愛無い笑い話だったのかもしれないが、惚れっぽいということは悪いことなのだと知り、また母がその度に悔しそうに唇を噛み締めるのが幼心にも悲しかった。自分は惚れっぽいのだろうか?
コシロ兄のことを好きだと思うのも、その惚れっぽさが為した勘違いなのだろうか。
出逢ってからずっと迷惑ばかりかけてきた。それでも助けてくれたから、恩義に感じてるだけなんじゃないだろうか。彼は既に妻の居る人。すっぱり忘れた方がいいのかもしれない。
ヒメコは小さく、でも深く息をついた。
その数日後、ヒメコは大倉の地で工事始めの神事を手伝った。ここに鎌倉の御所を建てるのだという。
「ヒメコ、そなたも姫の乳母として、また巫女としてこれからも二人の側に居てくれるか?」
頼朝に請われてヒメコは頷いた。
「そなたの父、比企朝宗殿は御家人として郎等を引き連れて参陣してくれている。但し、比企の家督を継ぐのは比企頼員という尼君の猶子だそうだな。そなたは知っているか?」
「はい。祖父の弟の子と聞いてます」
「その比企頼員を取り立てるよう尼君からは言われているので、頼員には鎌倉の土地を一部与えるが、朝宗は尼君の実子ゆえ、基本は武蔵国の比企に尼君と共に居たいそうだ。鎌倉には屋敷を建てるだけの狭い土地で良いと。だからヒメコが御所から退出したい時は、その鎌倉の屋敷に戻れば良い。いいな?」
はい、と返事をするが、退出という言葉や御所という言葉が全く身に馴染まない。何が何だかわからないけれど、とにかくアサ姫と八幡姫の側についていればいいのだろうとヒメコは理解して、八幡姫をあやして歌を歌って過ごした。
「殿は朝になったら兵を率いて駿河国に向かうそうよ」
そうポツリとアサ姫が呟いたのは、夜も更けた頃だった。ヒメコは驚いて立ち上がる。そのまま部屋を飛び出そうとした所をアサ姫に止められた。
「大丈夫よ。御所の工事始めの神事を行なえるくらい余裕があるんですもの。それに此度は東国の武士が一堂に会して何万騎と西に向かうから心配要らないと。安心して待てと笑って言っていたわ」
そして翌日、頼朝は兵を率いて鎌倉を発った。平家の少将平維盛が数万の軍で鎌倉を目指しているという。でもそれに対して頼朝の軍は数十万。それに駿河国は牧の方の実家もあり、北条父子が先に入っていて地の利がある。そこで迎え討つとのことだった。
兵の数だけでは単純に考えられないのだろうが、土肥へと数百騎で向かったあの出陣の朝よりは格段に心の落ち着きが違う。頼朝はきっと勝って戻るだろうとヒメコは思った。それでも掌を合わせて一心に祈る。ふと気付けば八幡姫が隣に座って同じ体勢で頭を垂れていた。
「まぁ、姫さま。ご一緒に祈りましょうか」
「うん。姫姉ちゃまは祈るのがお役目なんでしよ?姫もおてつだいするね」
そう言って小さな掌を合わせてナムナムと口ずさむ八幡姫。愛らしいその姿に、ヒメコは改めて神に丁寧な祈りを捧げた。どうか皆が無事で戻りますように。姫がいつも笑顔でいられますように。
頼朝が鎌倉に戻ってきたのはそれから十日程経った頃だった。新しく出来上がった大倉の御邸に入ったとのことで、アサ姫の所に迎えが来た。ヒメコと八幡も共に向かうが、顔を合わせるなり、頼朝はまた直ぐに常陸国に向かうと言い出す。
「常陸国に?何故また」
「佐竹を討つ。他にもまだ私に恭順の意を示していない者らがいる。それら全てを平定せねば京には上がれぬ」
言葉短かにそれだけ言って頼朝は席を立った。
「京へ?でも駿河国に来たという平家の軍はどうなったのです?」
すると頼朝は、ああと笑って言った。
「平家の軍は尻尾を巻いて逃げて行ったぞ」
ヒメコはアサ姫と顔を見合わせた。
「逃げて行った?合戦に負けて敗走していったたということではなくて?」
数で負けたからと逃げたのだろうか?でも、それでも刃を交えないということがあるだろうか。狐につままれたような気持ちでアサ姫と首を傾げるが、その理由は後日わかった。
両軍が富士川を挟んで東西に陣を敷いた所を、甲斐源氏の案で平家方の背後から奇襲をかけようとしたらしい。だが、その気配に水鳥が驚いて一斉に飛び立ち、その盛大な羽音を聞いた平家の軍勢は敵襲だと勘違いして大慌てで引き返していったのだという。
「とにかく、先ずは勝ったということね」
アサ姫がホッと息を吐く。
「姫さま、勝利ですって。姫さまのお祈りが効いたのですね」
ヒメコは八幡姫と並んで感謝の祈りを捧げた。
「きっとまたすぐにお戻りですよ」
だが、常陸国に向かった頼朝が次に鎌倉に戻ってきたのは頼朝が鎌倉を発ってから一月ばかりした霜月半ばの寒い午後だった。
大勢の武者を引き連れての凱旋。
邸の南側の庭がガシャガシャと騒がしい。山木攻めの翌日の庭の光景を思い出して身が震える。また首が並んでいるのだろうか?
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