三 業

「え、三郎殿が?」

ヒメコはぼんやりと繰り返した。

北条三郎宗時が石橋山の合戦で討ち死にしたという。あの時庇ってくれたのにお礼も言えず、お守りも渡せなかったので、ずっと気になっていた。その安否をつい尋ねてしまったらアサ姫の顔色が変わり、ヒメコは奥の部屋へと引っ張り入れられた。

「兄は敗走中に祖父伊東祐親の軍に囲まれて討たれたらしいわ」

走湯権現に隠れていた時、三郎殿は援軍を呼びに行くと言っていたと使いの男が教えてくれたのを思い出す。どこに援軍を求めたのだろうか?

ぼんやり考えたヒメコの横で、アサ姫が声を一段低くして囁いた。

でも変なの。『北条時政を討ったぞ』と討った武者が言ったんですって」

「北条時政を?」

「ええ」

「北条殿はご無事なんですよね?

「ええ。今は小四郎と駿河国に行ってるわ」

「名を聞き間違えたのでしょうか?」

互いに名乗りを上げた時に、北条の部分しか聞き取れず勘違いしたのかもしれない。ヒメコはそう思った。アサ姫も頷く。

「そうね。そうかもしれない。それに私も佐殿の所に報告に来た男の声をこっそり聞いただけだから聞き間違えたのかもしれない。だって、伊東の郎党が父と兄を間違える筈がないもの」

北条と伊東は昔から婚姻で縁を結んできた。縁者も多く往き来も多かった。でも、そう言うアサ姫の声は固く尖っている。一息ついてアサ姫は歯を食い締めた。ヒメコをじっと見る。

「ヒミカ、ここからの話は貴女の胸だけに秘めておいてくれる?」

真名で呼ばれ、ヒメコも唇を引き結んで頷いた。

「はい。誓います」

アサ姫は僅か迷うような色を見せたが、意を決したように口を開いた。

父は兄を疎んでいた。いえ、少なくとも私にはそう見えた。兄は父に嵌められたのではないかしら」

ヒメコは息を呑んだ。

嵌められた?

親が子を嵌めるなど、そんなことあるのだろうか。ヒメコは否定したい気持ちを堪えて黙ってアサ姫の顔を見つめる。

「三郎宗時の宗の字は牧の方の父君の牧宗親殿から頂いたもの。牧殿は三郎兄の烏帽子親で、本来は三郎兄の元に牧の姫が嫁して北条を継いでいく筈だったの。なのに、父はその姫を自分の後妻にして、北条の家督を握り続けることを望んだ。父は自分のことしか考えない人。私はそんな父が昔から大嫌いだった。それでも佐殿とのことは許してくれたし、何とか折り合いを見つけてやっていこうと思っていたのに」

声に滲む深い憎しみと侮蔑の感情。


いいえ、父ばかりではないわ。兄を討った伊東の男たちも同じ。自分の身勝手を通す為ならどんな卑怯な手でも使う。その陰でどれだけの女が泣いたことか。だから私は男なんて大嫌い。娘を手持ちの石のようにあちらこちらへ動かして利用するだけなんですもの。でも、私が一番大嫌いなのは私自身よ。あの父の血を引いた自分。そう、私の中に同じ汚い部分があるのを自分でわかっているから、きっと私は父も男の人も大嫌いなんだわ」


押し殺したような声で感情を吐露するアサ姫をヒメコはただただ息を呑んで見守った。

娘の扱いは、公家も武家も所詮は同じ。親の言いなりに、決められた時に決められた相手に嫁すだけ。きっと自分もそうなるだろう。そんな諦めに似た気持ちがヒメコにはあった。そういうものだから仕方ないと。でもアサ姫は違う。自分の選んだ相手と添う為に駆け落ちをした人。

北条館に居た時から、男たちに慕われ、囲まれて堂々と指示を下していたアサ姫。その姿は眩いばかりに美しく逞しくてヒメコは憧れた。でもその心の中はこんなに傷つき悩んでいたのだ。何だか切なくて泣きたい気持ちになる。何とか慰める方法はないだろうか。

この人を楽な気持ちにしてあげたい。祖母なら、どんな時でもその人にあう言葉を添えてあげられるのに。

ふと、祖母が時折口にしていた『業』いう言葉が思い浮かんだ。そのままに口にする。


好き嫌いの感情は『業』から来るのかもしれません。祖母が言っていました。感情は勝手に生まれ、自分の思うままにはならぬ面倒なもの。宿命のようなものだから、いつか業が消えるまで、そのまま抱えていくしかない。人は皆、業と共に生きていくものだから諦めろと」


言い終えてからハッとする。慰めるつもりが諦めろと追い込んでしまった。

「あの、ごめんなさい」

慌てて謝ったらアサ姫は微笑んで首を横に振った。

「いいのよ。あなたの言葉は純粋で素直で嘘がない。あなたの言葉を聞いていると、それだけで何だか救われるような気がするわ。でも最初に会った時はそんなあなたが怖かった。天女様に見定められてるような心地がしたものよ。私の醜くて浅はかな心なんか全て見透かされてるって」

最初に会った時?ヒメコは首を横に振った。

「最初にお会いした時、私には貴女様が観音さまに見えました。優しくて力強くて私達を天に導いてくれる観音様だと」

アサ姫が驚いた顔でヒメコを見る。

「観音さま?龍ではなかったの?」

「あ、はい。龍は子ども達と祝詞を唱えていた時に現れました。でも一番最初に視えたのは観音さまでした。力強くて逞しくて、私は一目で惚れました。姫さまは私の初恋の君です。光源氏の君だと私はそう思ったんです!」

話しているうちに興奮して強く言ってしまう。

「だから、どうかご自分を嫌いだなんて言わないでください。姫さまは私にとって、とても大切で大好きな人なんです」

言い終えて、フウと息を吐く。

アサ姫は呆気にとられた顔でヒメコを見下ろしていた。

あれ、と思う。この顔はどこかで見覚えがあるような気がする。どこでだったろう?そう考えて思い当たる。

コシロ兄だ。「妻にしてください」と言った直後の顔。姉弟なのだから似ていて当たり前なのだけれど、それにしてもそっくりだった。

思わず笑いそうになったけれど場にそぐわないので必死で我慢して、それから徐々に冷静になっていってはじめて、自分がとんでもない告白をしてしまったことに気付く。

「あの、ごめんなさい。初恋の君とか光源氏とか女の方なのに、私って変ですよね。でも、あの、変な意味ではなくて、素敵だなと憧れたんです!」

アサ姫は目を瞬かせた後、ふっと微笑んだ。

「すぐ下の妹がね、昔言ったの。『姉上は男に生まれていたら良かったのに。きっと為朝公みたいな、都でも評判の美丈夫になって、宮中にお仕え出来たでしょうに残念ね』って。確かに私は生まれる時に間違えたのかもしれないわ」

確かにアサ姫が男だったら、間違いなく帝に仕える評判の武者になっていただろうと思われる。見てみたかったとこっそりと思う。

「でも女に生まれたのも宿命なら、それを精一杯楽しまないとね。女にしか出来ないこともあるのだから」


アサ姫はそう言っていつもの美しい笑顔を見せてくれた。

「それにしても、私はヒメコの初恋の相手は小四郎だと思ってたわ。あの子もきっとそう思ってるでしょ。ざまあみろだわね」

そう言って、アサ姫はぺろっと舌を出した。

ヒメコは微笑み返すと小さく俯いて、そっと横を見た。


「やれやれ、この子は惚れっぽい子なのかね」

呆れたような祖母の声が蘇って、ツキンと胸が小さく痛んだのだった。

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