二 時機
「あーあ」
ヒメコの後ろで五郎がため息を吐く。
「読みが浅かったな」
アサ姫は頼朝の腕を掴むとズルズルと奥の部屋へと引っ張っていき、戸をバンと閉めた。
シーンと静まる大広間。あっけにとられた顔の男たちが、少ししてからドッと笑いさざめく。
「いやいや、さすがは鎌倉殿。古来より、妻が強い家は栄えるといいます。これで鎌倉も安泰ですな」
のほほんとした声にヒメコはパッと顔を上げた。
「叔父上!」
藤九郎叔父が、いつものニヤニヤ顔で立っていた。
「これは姫君、おつとめご苦労なことでしたな」
「叔父上こそご無事で何よりです」
「おかげさまでこの通り生きてますよ。あちこち使者に遣わされて少々疲れておりますがな」
そう言って首をコキコキと鳴らす藤九郎叔父。やっと戦が終わったのだとヒメコはホッと息をついた。それからそっと周りを見回す。コシロ兄はどうしたのだろう?北条時政や三郎宗時の姿もないから一緒なのだろうか。
「誰か探してんのか?」
急に声をかけられて、ビクッと背を伸ばす。
「小四郎義時なら北条殿と一緒に駿河国だぜ」
佐々木四郎高綱だった。ヒメコは慌てて手をついて頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
佐々木四郎の目が大きく開き、それから細く一本線になった。口が大きく横に結ばれる。
「へぇ、いいなぁ。お帰りなさいませ、だってさ」
「え?」
ニィと笑ったその顔が急に斜めに傾ぐ。
「佐々木の四郎兄、おかむりなさいませ」
五郎が佐々木四郎の頭に兜を斜めに乗せて笑って逃げて行った。
「こら、五郎!何しやがる!」
「ヘン!佐々木の四郎兄にはそれが似合いだよ!源氏の姫巫女様にそれ以上近付いたら鎌倉殿に言いつけるぞ!褒美が取り上げられるからな。覚悟しとけ!」
「何だと!五郎、お前いつか見てろよ!
「ああ、いつだって見張ってるよ!」
その時、奥の部屋から頼朝とアサ姫が出て来た。寛いでいた男たちがサッと背筋を正す。五郎もその場に腰を下ろして手をついた。
頼朝はにこやかな顔で広間に居並ぶ面々を見渡した。
「皆に改めて紹介する。私の妻だ。これからはこの鎌倉の女主として諸事執り仕切る。宜しく頼む」
アサ姫が頭を下げる。頼朝は続けた。
「こうして鎌倉に落ち着いた所だが、京で平家が兵を挙げたとの報が入っている。だが私は従五位下の官位を復され、また院より正式に東国の支配権を与えられた。我らは官軍である。此度の合戦で我が元に参陣した者らの領土は安堵する。また、平家に与する者を滅ぼした者には新たな領土を約束しよう。攻め寄せてくる平家を悉く打ち滅ぼし、子々孫々まで続く安寧の世を我らの手で創り出すのだ!」
熱く語る頼朝に、男たちの頰も紅潮する。
オウ!オウ!オウ!と息を合わせて拳を突き上げる男たちの大音声に、邸がビリビリと震えた気がした。
男たちの興奮が収まり、それぞれが去って行った後、頼朝が八幡姫を抱くヒメコの元に近付いてきた。
「姫、よく来た。むさ苦しい男たちが大勢騒がしくてさぞ驚いたであろう。怖がらせて済まなかったな」
そう言って微笑む。八幡姫はヒメコにギュッとしがみついていたが、ヒメコが促すと、ようよう顔を上げて頼朝の顔をまじまじと見つめた。
「父さま?」
微笑んで頷く頼朝に、やっと姫も少し落ち着いたらしい。
「あのね、父さまは川クマ殿になったって母さまが言ってたの。でも熊みたいに毛むくじゃらになってなくて良かったわ」
そう言って頼朝に抱きつく。頼朝は顔をくしゃっと歪めて、八幡姫を固く抱きしめた。
姫を抱っこしてユラユラ揺れながら平間をゆっくりと歩く頼朝。
「鎌倉は山と海に囲まれた美しい町だぞ。姫もきっと気にいる。狸や鹿、兎も沢山いる。でも先ずは海だ。今度一緒に見に行こうな」
「うん!」
八幡姫は頼朝の腕から下りると今度は五郎の背によじ登った。
「五郎も一緒ね」
頼朝は笑って頷き、その五郎の前に立つ。
「五郎、よく皆を守ってくれたな。アサから聞いたぞ。やはりお前に任せて良かった」
五郎の顔がパッと輝く。頼朝はそれからヒメコを見下ろした。
「ヒメコ、そなたにも礼を言う。そなたのお陰で上総を味方につけることが出来た」
何のことかわからずキョトンと頼朝を見返す。
「私は何もしてませんが」
「ほら、出陣の時に口走っただろう。
人、神気を張れば則ち勝ち、鬼、神気を張れば則ち恐る!と。上総の前で私は鬼になった。それで上総は我に味方してくれた気がする。あの時、あの場で上総が我が軍に下っていなかったら今どうなっていたか正直わからない。だから、そなたのお陰だ。これからも頼むぞ」
ヒメコは狐につままれたような心地ながら取り敢えず頷いた。
それからゆっくりと思い出してみる。
最初に来た啓示は兵たち皆に散り散りに逃げろと伝えること。最後に口を乗っ取った啓示は頼朝だけに与えるべきものだったということ。きっとそうなのだ。
でも、と思う。
もしあの時に口に出す機を間違えていたら、今に辿り着いていなかったかもしれないということなのだろうか。
背がゾッと冷えた気がして、ヒメコはそっと自らの腕を撫で摩った。
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