二十三 出陣

ヒメコはそっと目を閉じた。ゆっくりと息を吸い、口から長く吐き切る。それから、ハッと激しく息を吸い込んで肚に溜めた。

目を開く。

佐殿を振り返る。期待に満ちたその双眸にヒタと目を合わせ、ヒメコは閉じようとする口を無理にこじ開けて声を発した。


「トカゲのように尻尾を切ってでも生きて。生き延びてください。皆、散り散りになって、どうか生き延びて!」


言い終わった瞬間、佐殿は虚を衝かれたような顔をした。それはそうだろう。戦を勝利に導くような、兵を鼓舞するような力強い神言を求めたのに、その逆、生への執着を求めるような発言をしたのだから。

佐殿は問いただすようにヒメコを見る。ヒメコはその目をただ静かに見つめ返した。

生きて。

死んではいけない。

兵達がザワザワと騒ぎ出す。

佐殿はチラとそちらを見た後、ヒメコをもう一度見た。ヒメコも力を込めて見返す。佐殿は何かを言いかけて、でも何も言わずに黙ってヒメコを見ていた。その目からはもう驚きも恐れも消えていた。

伝えた。伝えられた。

あれがヒメコの精一杯だった。



その時、ズカズカと誰かが近付いてきた。


バシーン!

頰を張り飛ばされる。

「この小娘!前回に引き続き、今回までしゃしゃり出てきおって。それも何てことを口にする!」

北条時政だった。ヒメコは吹っ飛ばされて戸に背を強かに打った。


「たかが巫女の分際で何てことをしてくれる!佐殿、こんな紛いの巫女の言葉なぞに惑わされてはなりませぬぞ!我らは戦に向かうのです!」

時政はヒメコの前に仁王立ちした。

「えぇい、下がれ!兵を鼓舞するのがそなたの役目であろうに、萎えさせて何とする。さてはおまえは平家の手のものだな。都にはカムロ(子どもの密偵)が沢山放たれていた。お前もその一人であろう。ここで片付けてくれる!」

時政はスッと腰を屈めると左腰の太刀に手を伸ばしかけたが、近くに佐殿がいるのに気付くと右腰の小刀へ手をかけ、ヒメコをギリリと睨み据えた。

ヒメコはその時政の青白い目をじっと見返した。ここで斬られるのか。それでも啓示を無視することは自分には出来なかったのだから仕方ない。

口の端を何かが流れ落ちる。ポタツと白い上衣に落ちたのは赤い血。ヒメコは唇を噛み締めた。

緋色の袴の方に落ちてくれれば目立たなくてよかったのに。

そんな呑気なことを考える自分がいるのに気付いて可笑しく思う。

いいのだ。佐殿に、皆に、伝えるべきは伝えられたから、それでいい。役立つこともあるかもしれないし、役立たないこともあるかもしれない。それもまたきっとお計らい。そしてここで自分が死ぬのもまた同じ。そんな投げやりな気分で、斬られる瞬間を待つ。

その時、時政との視線の間に誰かの背中が入った。

「父上、前回は彼女の言葉に従って大道を行って大勝利したではありませんか。此度も何か意味があっての発言でしょう。それにこの娘はカムロではございません。比企の姫です。そうであろう?数年前に妹達の所に遊びに来ていた。違うか?」

振り返る男。顔を見れば、殆ど言葉を交わしたことのなかった北条三郎宗時だった。

「比企ぃ?何だ、それは。どこの国だ」

時政が素っ頓狂な声をあげる。

「武蔵国ですよ。父上、少しは落ち着かれませ。佐殿の乳母の比企尼君とは何度か文を遣り取りしたこともございましょう。父上のお好きな瓜をいつも送って下さっていたではありませんか」

「瓜ぃ?」

時政のとぼけた声に、庭の男達がそっと笑う気配がして、場の空気がふっと和らいだ。

でもその時ヒメコは、背を見せてヒメコをかばってくれた男の声に集中していた。

この声、もしかして。もう一声、何か聴けたら。

でも彼はスッと避けて、代わりに佐殿が時政の前に立った。

その時ヒメコは気付いた。腰を屈めて小刀にかけていた時政の右手を押さえていたコシロ兄の左手がそっと離れていくのを。

護られていたことに気付く。


斬られても仕方ないと思っていたのに。

コシロ兄は何事もなかったように静かに後ろに下がると庭へとおりていった。


時政が落ち着く頃合いを見計らっていたのだろう。佐殿が縁の端に立った。居並ぶ男たちに向かって声をあげる。


「北条三郎の言う通りだ。山木の戦に勝利して我々の気分は昂っている。だが、ここからの戦は、この日本という国で永く公家らの言いなりで日陰に甘んじてきた我らが、初めて日の目を見る為の大合戦。長く過酷なものとなろう。それでも、いやそれだけにその見返りもまた果てしなく大きい。巫女の言葉の通りだ。けっして慢心せず、無駄死にせぬよう目の前の敵にのみ集中して活路を見出だし、皆で揃って勝利の美酒を味わおうぞ」

言い終えて、拳を振り上げた佐殿に、男達も自らの拳を天に突き上げて応える。

佐殿は微笑んで首を頷かせると、そっと後ろに目を送った。時政が口をひん曲げていた。その隣に立ち、時政の機嫌を伺うように首を傾げて、腕を開く。


「さて、では北条殿。いざ出陣の時。此度の号は是非とも北条殿にお願いしたい」

そう言って、佐殿は時政の背後へと立つ。時政が軽く咳払いし、ズイと前へ足を出した。

「皆、これより我らは伊豆を出て相模に入り、三浦の大軍と合流して朝敵を討伐する!以仁王の令旨を手にする我らは官軍。先祖伝来の土地を奪おうとする憎き伊勢平氏を打ち滅ぼし、我らの土地を護るのだ!いざ、出陣!」

男たちは、おお!と答えると甲冑の音高らかに北条館を出て行く。

ヒメコは住吉に会釈して屋敷の外に出る。

武者達が次々と馬に跨っていく。

ヒメコはそこに駆け寄った。

「ご武運を!」

コシロ兄に草の葉の包みを一つ渡す。

「どいてろ!」

怒鳴られるが包みは受け取って貰えた。

もう一つ。夢で教えてくれた北条三郎に渡さねば、とその姿を探すが見つからない。濛々と砂煙の舞い上がる中、必死で辺りを見回していたら

「ヒミカ」

名を呼ばれた。

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