二十四 美しい音
振り返れば馬上の佐殿が見ていた。その足元に駆け寄って草で包んだ護りを一つ渡す。
「人、神気を張れば則ち勝ち、鬼、神気を張れば則ち恐る!」
ヒメコがそう叫んだ瞬間、佐殿が噴き出した。
「間の抜けたヤツだな。その言葉は本当は先程言うべきだったのではなかったのか?であれば、そのように頰を腫らさずとも済んだのに」
言われて、自分が口にした言葉を思い返す。
確かにそうだ。勝つという言葉が入っている。なのに、何故あの時は出てこないで今頃になって出て来たのか。
佐殿はヒメコが渡した一包みを顎紐に引っ掛けると馬の首を回した。
「アサと姫を頼む!」
ヒメコは、諾の返事をして「ご武運を」と言い繋いだ。佐殿の馬に続いて北条時政の馬、コシロ兄の馬が次々に堀の上の橋を渡っていく。そして槍を手にした歩兵達。
ヒメコは彼ら全ての姿が見えなくなるまで掌を合わせて祈り見送った。
その午後、ヒメコは住吉と共に伊豆山走湯権現のアサ姫の元に向かった。
「まぁ、ヒメコ。良かった。住吉殿も無事で何より」
「御方さま。佐殿は滞りなく相模国の土肥に向かわれました」
住吉の言葉にアサ姫はそう、と答えて傍らに控えていた尼僧を紹介してくれた。
「初音様、いえ、法音尼さま、こちらが神職の住吉殿と巫女のヒメコです。戦が落ち着くまで二人もこちらに寄せていただきます」
二人が頭を下げて礼をすると、尼僧はにっこりと微笑んだ。まだ若い尼君だった。
「先に法音尼という名を頂きましたが、元は初音という名。呼びやすい方でお呼びください。皆さまのお世話をさせていただきます」
「初音様は私の読経の師匠で、今は殿の代わりに読経をして下さってるの。『一生不犯』の方なのよ」
いっしょうふほん?」
ヒメコが首を傾げたら、法音尼は首を横に振って、そっと笑った。
「人として生まれて生涯罪を犯さぬ者などおりましょうか。肉は口にせずとも草を食むだけでその草の命を頂いていますのに。ただ、私はこちらの僧正様にお縋りした際に、可能な限り罪を重ねぬよう生きたいと申し上げたことから、そのように生きることを目指す者として、その名を冠されたのです」
祖母の言葉を思い出す。
「穢れてない人などいやしない。
でもそれでは神に近付けない。だから身に積もった穢れを懸命に祓いながら、少しでもこの世が清浄なる神の国に近付くようにと一生かけて祓い続けるのが巫女の仕事さ」
初音様の言葉は、それときっと同じことなのだろう。
法音尼は静かに掌を合わせると部屋に安置されてい仏像に向かって頭を下げた。ヒメコも倣って頭を下げる。
少しして法音尼が微笑んで言った。
お方様とは、そう、お方様が佐殿と駆け落ちされた時からのご縁で、こうして読経などご一緒させて頂いてます」
「え、駆け落ち!」
驚いて、つい声をあげてしまう。アサ姫はバツが悪そうに笑った。
「父がゴネて他に嫁に出そうとしたので佐殿と大姫とここに逃げたの。雨の中で大変だったわ」
「ええ。ずぶ濡れで大変驚きました。でも、お可愛い姫のお世話もさせていただいて、私には嬉しい想い出ですわ」
そう言って、法音尼はまた掌を合わせると読経を始めた。アサ姫がそれに倣い、二人声を合わせて般若心経を唱え始める。
ヒメコは改めて法音尼の横顔をじっと眺めた。美しい人だ。それに声もとても澄んでいて綺麗。初音という名も法音尼という名もどちらも相応しい。
その法音尼の膝に八幡姫がコロンと頭を乗せて甘え始めた。さすがに退屈したのだろう。ヒメコは道の途中で摘んだ花を八幡姫に見せて側に呼び寄せると、読経を続ける二人を残してそっと部屋を後にした。
「姫姉ちゃん」
声に振り返れば五郎が笑顔で立っていた。
「こっち!遊ぼうよ」
誘われて姫が駆け出す。それを追ってヒメコも外に出た。
外では藤原邦通が口笛を吹いていた。
「おや、姫さま方。ご一緒にやりませんか?」
言って、邦通はヒメコに小さな木片を差し出した。首を傾げたヒメコの前で、邦通は木片に突き刺さっている釘のようなものを引っ張ったり挿し入れたりを繰り返した。すると、キュキュキョキョ、ケキョケキョと鳥の鳴き声が聴こえてきた。
「わぁ、鶯みたい」
「姫もやる!」
八幡姫が手を伸ばす。邦通は木片を姫に手渡した。姫は満面の笑みで釘を摘むと、スポーンと勢いよく引き抜いた。五郎が慌てて釘を取り上げる。
「あ、こら。抜くんじゃなくて、こうやって、きゅっきゅって捻るんだ」
五郎がやって見せる。すると綺麗な鳥の声が響いた。
「ホー、ホケキョ!」
見事な鶯の鳴き声。驚いて振り返ったら、邦通は口に手を当てていた。
「失礼。今のは口笛です。鳥の鳴き声を出していると、仲間だと思って鳥たちが集まってくるんですよ。まぁ、さすがに秋に鶯は出てきませんがね」
そう言ってにっこりと微笑む。不思議な人だ。佐殿が、アサ姫と八幡姫の供に邦通を選んだ理由がわかる。
「さて、山は日が暮れるのが早い。腹も減ってきました。中へ入りましょう」
「入りまちょー!」
姫に手を引かれてヒメコも中に入る。
入る直前、ふと振り返って日の沈む山の向こうの方を眺めた。
もう三浦の軍とは合流出来たのだろうか。でもここから見えるのは海ばかり。そして遥か西方の海の上には分厚い黒雲が層をなしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます