二十二 啓示
とにかく夢の中の声の主を確かめなくては。ヒメコはコクリと唾を飲み込むと北条館の裏の水場へと向かった。
アサ姫が不在の間は、出立前の兵達の食事は全て北条館で賄われる筈だった。その手伝いをすべく北条館の裏手に回る。予想通り、中はてんやわんやだった。
「あら、五郎君、牧の方と一緒に駿河に向かったのではなかったの?」
下女にそう問われるが、ヒメコは曖昧に首を横に振り、手伝いますと言って、握り飯が並んだ盆を手にした。
「これはどこへ運べばいいですか?」
「ああ、それは大広間にお願い」
返事をして、ふと何かを踏んだと思って足下を見下ろしたらヤモリの尻尾だった。握り飯の乗った盆を持ってるので咄嗟に動けないでいるうちに、ヤモリはプツンと自らの尻尾を切ってチョロリと逃げ出した。
「きゃあ、トカゲ!」
悲鳴と同時に、ガチャンと派手な音が響いて、辺りに水が跳ねた。一人の下女がヤモリに驚いて台の上の水差を倒して割ってしまったようだ。散らばる破片。地に溢れ落ちる水。その隙間を逃げて行くヤモリ。黒いその姿が先程のカラスと重なる。
「平気?怪我しなかった?悪かったわね、トカゲは苦手でね」
謝る下女に首を横に振る。ヤモリは僅かな隙間から外へと這い出て行った。ヒメコは笑顔で下女に向かった。
「あれはヤモリです。家の守り神で虫を食べてくれるから放っておいて平気ですよ」
そう言ったら、水差を倒した女は
「そうは聞くけどねぇ、苦手なものは苦手なんだよ」
そう言って、濡れた土間の上に散らばってしまった欠片を拾い始めた。その光景を見た瞬間、別の光景が頭の中をよぎる。
濡れそぼる佐殿と男たちが、割れた破片のように方々にわかれ、てんでバラバラ勝手に逃げ惑う光景。
それを何故かホッとして視ている自分。
その時、あの声が繋がった。
「散り散りに逃げろ!」
これは啓示だ。此度の戦は負けるんだ。でも逃げられる。否、逃げなくてはいけないんだ。
ヒメコは握り飯の乗った盆をしっかりと持ち直すと大広間へ向かった。握り飯を男たちに振る舞いつつ、同時に腰に付けていた小袋の口を開け、声をかけていく。
「この袋の中の小さな包みを一つどうぞ。御護りです。胸元か袖に隠しておいて、腹が減ってどうしようもない時に噛まずに口に含んでください」
男たちは不思議そうな顔をしながらも、袋の中の小さな包みを一つずつ受け取ってくれた。
礼を言ってくれる声を聞きながら、夢の男を探す。
草で包んだその包みの中には、木の実が三粒と米粒が三粒。勿論、腹の足しになるものではない。言葉通りの御護りだ。三という数字は火を意味する。また「ミ」の言霊とかけて、願いが満つること。見える形で皆が帰って来ることを祈り、
「アマテラスオホミカミ」
と、この国を護る大神の御名を唱えながら包んだ。
配っている途中で佐々木四郎を見かける。佐殿の所在を問うが首を傾げられた。
「まだこちらには顔を出してねぇよ。奥で北条のおやっさんと打ち合わせてんじゃねぇの?それより、あんたは北条の姫たちと駿河の牧の方の実家に隠れたんじゃなかったのか?」
「私は、出陣前の神事が終わったら走り湯の御方様と姫さまの元に身を寄せます」
それだけ言ってコシロ兄の姿を探す。だがコシロ兄は大広間には居ない。佐殿の所だろうか。ヒメコは空になった盆を持つと奥へと向かった。
男たちの話し声のする部屋の前に膝をつき、声をかける。
「佐殿はおいででしょうか」
ややして男の太い声が答える。
「佐殿なら奥のお屋敷に戻られた」
ヒメコは礼を言って下がった。
そこでふと思う。
夢で聞いた声は今の声ではなかったか?
いよいよ出立の刻限。居並ぶ男たちの前で神事が始まる。
住吉の祝詞が終わり、ヒメコが鈴を鳴らす。鳴らし終えてヒメコが佐殿を振り返った時、庇から何かが縁に落ちた。ヤモリだった。その瞬間、ヒメコの中で今朝の水場での出来事と今朝方うなされた夢での記憶、男の叫び声が重なってヒメコは焦燥感に駆られた。
「逃げて!」
そう叫びたいのを口を無理に手で覆って懸命に押し留める。
逃げて。死なないで。死んではいけない。早まってはいけない。
でも、それらどの言葉も、戦地へ向かう男達に言っていい言葉ではない。
「ヒメコ、どうした?また何か聴こえたのか?」
佐殿が振り返る。山木の時は聴こえた訳ではない。勝手に口が動いたのだ。でも今回はそうではない。ただ啓示が与えられただけ。それをどう扱うかはヒメコに委ねられていた。
逃げろと伝えるべきだと心の奥ではそう思う。でも、これから出陣する兵にそんなことを言っていいのだろうか?
良いわけがないと頭は返す。そんなことを言ったら兵たちの士気が落ちる。下手をしたら出陣出来なくなって、昨晩時政が言ったように、佐殿はここで孤立して東西を軍勢に挟まれ、どちらにしても全滅してしまう。
でも。
でも伝えなくては。
一連の事柄が全て天からの啓示とするならば、託された側が何らか動くことを天が期待しているということ。それを無駄にするようでは、二度とヒメコは啓示を頂けなくなる。
でも佐殿の挙兵を助ける為にここに在る筈の自分が、それを邪魔するような真似をするのが本当に天道に沿うことなんだろうか?
いっそ、この間の山木の時のように自分を乗っ取ってくれたら楽なのに。
でもそれは責任逃れだと冷静に考えている自分がまたいる。
ヒメコは迷った。
まるで試されているかのようだと思った。
巫女として生きるか。ただの人として生きるか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます