ニ 合戦 石橋山

二十一  凶夢

その夜、アサ姫は八幡姫と共に走湯権現の坊に身を隠した。神職の住吉と藤原邦通が従い、ヒメコも同行する予定だった。

だが直前になって住吉とヒメコは佐殿に呼ばれた。翌日に祓を行なってから後を追ように申し渡される。

北条館の奥の間。北条時政と並んで座りながら、佐殿は青ざめた顔で口を開いた。

「凶夢を見たのだ。暗闇の中、自刃の作法を教わる夢だ。現としか思えぬ、まことに生々しい夢だった」

不安気に呟く佐殿を北条時政は笑い飛ばした。

「それは縁起のよい」

「縁起が良い?」

目を剥く佐殿。ヒメコと住吉も驚いて時政を見た。

「ええ。うたた寝で見る悪夢は逆夢になると聞きます。ご安心なさいませ。大事ございませぬ。この時政と相談した通り、安んじてご出立あれ。三浦と合流すれば大庭など恐るるに足りません。大勝利を掴んで平家に目に物見せてくれましょうぞ」


佐殿の背に手を当てて、鷹揚な態度を取って見せる北条時政。佐殿は溜め息を一つ吐いて時政を睨んだ。

「逆夢とはな。まことにそうであればよいが」

時政は何もかもわかっていますよ、というような優しげな顔で何度か首を頷かせた後、一転して顔つきを変え、佐殿、と小さいながらも脅すような声を出して佐殿に詰め寄った。

「悪夢を見たからと合戦をやめるわけにはゆきませぬからな」

それからパッと身を離して明るげに笑って見せる。

おやおや、そんな顔をしていては清和流源氏の名が泣きますぞ。さぁ、いい加減に肚を決めなされ。山木を討った以上、我らにはもう道は一つしかないのです。三浦の到着が遅れているのが心配なのでしょうが、ここでこれ以上もたもたしていたら、東から大庭と伊東の軍勢が合わせてやってきて、我らは三浦と合流出来ぬまま、この狭い伊豆で孤立し、西からの平家の大軍にあっという間に滅ぼされてしまいます。とにかく相模国の土肥まで入らねばならんのです」

「わかっておる。だから明日にここを発つ。その前に祓ってから出陣したいと言ってるだけだ」

北条時政はあからさまな渋面を作ったものの引き下がった。



佐殿が北条館を出るのに続いて住吉とヒメコも共に外に出る。

「住吉、ヒメコ、そなたらは逆夢の話をどう思う?」

問われ、ヒメコは住吉と目を合わせた。

「うたた寝が逆夢というのは私は聞いたことがありません」

ヒメコは嘘は苦手だ。思うまま正直に答えたら、住吉も黙って小さく頷いた。

「やはりそうか。舅殿は口がうまい。敵を作らないのが彼の最大の取り柄だが、時に信用がならないのだ」

佐殿は唇を噛むと、だが、と続けた。

「私にとっては大事な後ろ盾。とにかく、明日の神事は念入りに頼むぞ」

頷いて部屋へと戻るが、明日が出陣と思うとなかなか寝付けない。小さく祝詞を唱えながら目を閉じて過ごす。やっとウトウトしかけたと思った瞬間、悪夢を見て目覚めた。誰かが何かを叫んでいた。でも何と叫んでいただろうか。気付けば夜明け。明け方の夢は正夢になると祖母が言っていた。でも否定したくて首を横に振る。悪い夢は誰かに話すと消える。祖母はそう慰めてくれた。そうだ、誰かに聞いて貰えばいい。でも観音さま、アサ姫はここに居ない。では誰に?

佐殿には話せない。

それに具体的な夢ではなかった。ただ誰かが叫んだ声を聞いただけ。何と叫んでいたのだろうか。男の声だった。あの声はどこかで聞いたことがある気がするのだけれど。

でも声より、何と言っていたのかを思い出さないと。

でも思い出そうとすると消えていくのが夢。

ヒメコは諦めて起き上がると行李の中から小袋を取り出し、腰につけて北条館へと向かった。

その時、一本の木からバサバサと羽音がして、沢山の鳥たちが一斉に空へと飛び立った。烏だ。それも初めて見るくらい沢山のカラス。

「アッアッアッアッアッアッアー!」

短く鋭く、警戒を呼びかけるような声をあげて飛んでいく黒い影。青い空へとバラバラに散らばって逃げていく。蟻みたいだと思った瞬間、ヒメコは夢で聞いた言葉を思い出した。

散れ!バラバラに別れて逃げ延びろ!」

そう叫んでいた。でも。あれは誰の声だろうか?

聞いたことがある気はするけれど佐殿ではない。コシロ兄でも。父でも。では、四郎?違うような気がする。もっと太い声。では佐々木の兄のいずれだろうか。

いずれにしても今日合戦に出る男たちの誰かに違いない。

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