十六 雨

バチバチと篝火の弾ける音。紅い火の粉が夜闇に舞う。

暫くして

ビィンと弦の鳴る音がした。続いてガツッと鈍い音。

また直ぐ続いて弦の音と木の砕ける音。

抜けた。

ヒメコは篝火の向こうの遥か彼方を見た。空が薄鼠色になってきていた。夜が明ける。薄紫に染まる空を背景に佐殿が立っている。その背は堂々としていつもより大きく見えた。

アサ姫がそっと呟いた。


「あれが私が惚れた男の顔よ」

誇らしげなアサ姫の声。それを嬉しく聞きながら、ふと思い出して口を滑らせた。

「コシロ兄ってそんなに弓が不得手なんですか?」

尋ねたら、アサ姫は笑った。

「ええ。今は幾分マシになったけど、あの子は元々左使いだからね。かなり苦労してたわ。

でも羽中太が来て、生来のものこそ活かすべきだと、小四郎には短刀と体術を教えてくれたの。それからはそっち専門。合戦でも弓と太刀は手にするだけであまり使わないんじゃないかしら」

過去、比企まで送ってくれた時、鏑矢を射ていたことを思い出す。

いつも涼しい顔で何でも出来るように見えたコシロ兄も、実は苦労をしていたのだ。もしかしたら人一倍努力した人だからこそのあの沈黙なのかもしれない。

「きっと勝ちます」

ヒメコは呟いた。

そう。将の心が整ったのだ。あとは矢が自ら弦を離れるその時を待つだけ。


だがその時、ポツリと大粒の雫が落ちてきた。

ボツボツボツ。

慌てて屋内へと逃げ込む。

その雨は少しして止んだが、その日は一日中重い雲に覆われた。翌日から雨が続く。合戦を目前に控え、佐々木兄弟は戻らぬまま時ばかりが過ぎた。


合戦前日、小雨の中祈祷が行われた。天曹地府祭。佐殿が鏡を抱え、天を恨めしげに睨み上げながらの祈祷。だが祈祷が終わり、少ししたら雨が止んだ。アサ姫が握り飯と汁を振る舞うのでその手伝いをする。男たちは庭にてそれを口にした。

「それにしても人数が少ない。明朝ではなく延期しようか」

佐殿がポツリと呟くが、誰も何も言えずに押し黙る。

ふと邦通が佐殿に耳打ちするのが見えた。佐殿はアサ姫に声をかけ、アサ姫がヒメコを呼んだ。

「あの男を見つからないようにつけてくれる?」

宵闇の中、指差された方角には人目を忍ぶようにコソコソと北条館の裏手に回ろうとする男の姿。ヒメコはそっと後を追った。

男は裏手に回った所で、小さな声で中に声をかける。すると中から一人の女性が顔を出し、嬉しそうな顔で男の手を引くと中へと招き入れた。少し側へ寄って耳を澄ましてみたが何も聞こえない。

盗みを働くような顔には見えなかったし、あの女性には見覚えがある。確か北条館の下働きをしていた筈。ヒメコはアサ姫の元に戻って次第を報告した。

「ああ、あの子は最近夫が出来たと聞いていたわ」

それで一同ホッとするも、邦通がいいえと首を横に振った。

「あの顔は確か、山木で見ました。家人の一人ではないかと」

「もしや既に計画が漏れて偵察に遣わされたのかも知れません。中に踏み入って二人とも殺しましょう」

そう言ったのは北条時政だった。

ヒメコは首を横に振った。

「あの二人からはそのような気配は感じられませんでしたが」

「何を申す。お前のような女子に何がわかる。佐殿、今は用心すべき時ですぞ!」

でも、とヒメコが声を上げようとするのを佐殿は目配せして止めた。

「確かに用心すべき時。あの男がまこと山木の家人で、ただ女の元に通って来ただけなら、朝に戻らぬ方がかえって怪しまれましょう。何にせよ、男がこれだけの数、庭にうろついていては朝帰りに怪しまれかねない。男たちは私の屋敷の広間で休め。物音を立てぬよう静かに歩くのだぞ」

佐殿の言葉に、武者姿の男達は抜き足差し足忍び足でそろそろと林の奥の佐殿の屋敷を目指す。その内、雲が切れて月の光が差し込んできた。

「おお、そろそろ満月か」

先程静かに歩けと言った佐殿が、感慨深げにぽつりと呟き、皆が一斉にギロリと佐殿を睨む。それがおかしくて、ヒメコは噴き出すのを必死で我慢した。

結局、男たちは佐殿の屋敷の広間でざこ寝しながら夜を明かした。

佐々木の兄弟は朝になっても帰って来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る