十五 離弦
アサ姫はその目をそっと細めた。
「ふざけないでよ。そんなわけないでしょ。まだ寝ぼけてるようだから起こしてあげようとしてるだけよ」
そう言うと佐殿の腕を掴んで引っ張り上げ、ズルズルと外へと連れ出す。
「どこへ行く」
「庭よ。ちょうど篝火がついてることだし、競べ矢をしましょ」
「こんな夜中に?」
「そうよ。こんな夜中なのに眠れないんだから仕方ないじゃない。でも汗をかいて疲れたら眠れるわよ」
そして二人は出て行った。ヒメコは泣きじゃくる八幡姫を抱き締めていた腕の力を僅か緩め、先程佐殿が投げ捨てた守り袋を拾い上げると姫の小さな手に握らせた。少し冷えた闇の中、ふくよかな香りが辺りに広がる。
姫を優しく抱いて、左右に身体を揺らしながら歌を小さく口ずさむ。父さまがよく歌ってくれた歌。八幡姫はずっとしゃくりあげていたが、気にせず歌い続けていたら、ふとその体から力が抜け、ずしりと重くなった。眠ったのだろう。ヒメコはそのまま揺れながら徐々に体勢を低くした。膝をついて姫をそっと横たえ、アサ姫の着物を被せ、歌い続けながら、その横に並んで添い寝する。そうして暫くしたら軽い寝息が聞こえてきた。その寝息を妨げないように調子を合わせてそろそろと起き上がり、そぅっと身を離していく。それでも寝息が途切れないのを確認してからヒメコは静かに部屋の外へと出た。戸の外で心配そうにしていた侍女に、姫が眠っていることを伝え、もし泣き声がしたら自分を呼ぶよう言うと、ヒメコも草履を履いて屋外へと出た。
庭では佐殿とアサ姫が弓を手に並んで立っていた。篝火の向こうにかろうじて的らしきものが見える。二人はそれに向かって交互に矢を射かけていた。
「こう暗くては当たるわけがない」
でも次にアサ姫が射た直後、カツンという音がした。
「そら、掠めたわよ。今の貴方なら小四郎でも勝てるんじゃない?」
「何を言う。小四郎なんぞには負けぬぞ」
「さぁ、どうかしら。左使いのあの子でも今の貴方よりはマシかもよ。さ、私の番ね。次は射抜くわよ」
「私は夜目がきかぬのだ」
「私だって目には見えてないわよ。貴方が昔教えてくれたんじゃない。目で見るだけでは的には当たらないって。矢が的を射抜くのを視てから矢を放てば当たると、そう自分で言ったくせに覚えてないの?」
佐殿はそれには答えなかった。無言で矢をつがえる。放つ。だが音はしない。
「離弦の刹那に、弓引く者の肚がどこにあり、心が何を見ているかで的を得るか外すかが決まると教えてくれたのは貴方よ」
そう言ってアサ姫がまた射た。ガツッと鈍い音が響いて、篝火の向こうの薄白かった的がくるくると回るのが見える。
佐殿がホゥと息をついて弓を持つ左手を下ろした。
「弓を引く時、心と体が一つとなった心弦一致の焦点になっていれば、矢は自ら的に向かって弦を離れていく。その境地は、少ない兵で大敵を討つ時の攻撃の起点と同じ」
お経を読む時のような静かな声。
「そうよ。闘戦経でしょ?」
「そうだ。『矢の弦を離るるものは、衆を討つの善』。矢も合戦も、勝敗は離弦の刹那の将の気迫に依るものだ。ああ、そう教えたのは私だったな」
佐殿は頭を抱えた。アサ姫が笑う。
「何よ。負けを認めるの?」
「ああ、認める。そなたには敵わぬ」
「それはどうも有り難う。師匠が良かったのよ。すぐにへこむしすぐに調子に乗る困った師匠だけどね」
「悪かったな」
顔を上げた佐殿は笑っていた。
「しかしもっと味方を増やせる手が他にはないのか?どうすればもっと味方を増やせる?私は何としても勝ちたい。勝って生き延びて、皆と笑って安心して暮らしたいのだ」
「そう言ったって、もうどうしようもないわよ。貴方は既に弓に矢をつがえたのだから。そんなの、二本同時に矢をつがえる方法はないかと悩むようなもの。一本つがえた以上、今の貴方に出来るのは、矢が自ら的を射抜く刹那まで心を弦と一体化するだけ。その後のことはその後にお考えなさい」
佐殿は頷いた。
「そうか。そうだな」
頷いた佐殿は、その時やっとヒメコに気付いたようで振り返った。
「おや、ヒメコ。姫は眠ったのか?」
はい、と頷いたら佐殿は嬉しそうに笑った。
「さすが八幡と名をつけただけあって度胸が座ってる」
泣き疲れて眠っただけだと思ったが、ヒメコは微笑んで頷いた。佐殿は続ける。
「闘戦経は、八幡太郎義家公が兵法大家の大江卿に教えを乞い、源氏に代々伝えられるようになった兵法だ。他に『孫氏』など、幾つかの実践的な兵法も一緒に伝わったが、日本の武士であれば、何より先にこの『闘戦経』を学べと大江卿は巻頭に記し、父も闘戦経を先ず見せてくれた。父は敢え無く果てたが、私はそれを教訓に生き延びてやろうと決めた」
言って、体の向きを変え、ジリと足を開く。左腕の弓を上げ、背負った矢筒に右手を伸ばし矢を一本引き抜く。
「もう一度射らせろ」
「どうぞ」
アサ姫は後ろに下がった。
佐殿は左腕を真っ直ぐ伸ばし、幾度か呼吸をゆっくりと繰り返すと目を閉じる。次に目を開いた時には、その目はどこか遥か彼方を見ていた。
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