二 八幡姫
「姫姉ちゃん!姫姉ちゃんだよね?帰ってきたんだね!お帰りなさい!」
声をかけられ、手を引っ張られる。
振り返れば、記憶の中のそれより、ずっと背が伸びてヒメコの目線とあまり変わらない位置に目線がくるようになった男の子が艶やかな微笑をたたえてヒメコを見つめていた。
「あの、もしや五郎君?」
尋ねたらコクリと頷き、ぱあっと華やかな笑顔を見せる美少年。
「まぁ、相変わらずお可愛らしい」
そう言おうとして、でも目線の変わらなくなった男の子にそれは失礼かと口を噤む。
「長くお会い出来なかったのに私のこと覚えていてくださったのね」
嬉しくてその手を強く握り返してそう言ったら、五郎は意味ありげにニヤッと笑って繋いだ手をブンブンと振った。
「当たり前でしょ。姫姉ちゃんはオレの初恋の人だもん。この手もオレの物だって前に言ったの忘れたの?」
言われてみれば確かにそんな会話があったような気がするけれど、初恋というのは初耳だった。それもこんな可愛い子、いや少年にそんなことを言って貰えるなんて光栄というか、純粋に嬉しくて何だか泣けてくる。
合戦が始まるから手伝いに行けと、半ば追い出されるような形で比企を出て久々の北条館。すっかり様変わりした様子に、心細くなかったと言えば嘘になる。その萎んだ心が五郎のおかげでほわんと温かく膨らんだ気がした。
「こら、五郎。あんたは口ばっかり達者なんだから。冗談言ってヒメコ様を困らせるんじゃありません。薪を頼んでおいた筈でしょ?早く行ってきなさい。でないと瓜を分けてあげないわよ」
アサ姫の声に五郎が駆け出す。でも行きしなにアサ姫を振り返り、ベーと舌を出した。
「男の冗談の半分は本気なんだよ。そんなのもわかんないんじゃ、今に佐殿に浮気されちゃうからな!」
「こら!」と拳を振り上げるアサ姫に、五郎はお尻をペンペンと叩いて駆け出す。
ヒメコはそれを見送ってからアサ姫に向き直り、頭を下げた。
「ご無沙汰しておりました。お変わりないご様子。嬉しゅうございます」
顔を上げれば、二年前と変わらない優しい顔がヒメコを見下ろしていた。
「ヒメコ様、いらっしゃい。直接こちらにお呼びしようかと思ったんだけど、妹達が会いたがっていたし、あなたも会いたいだろうと思って先ずは一応とあちらにお通ししたの。ところであの人はその辺にいた?」
あの人。きっと新しい女主人のことだろう。「いえ、お姿は」と曖昧に答えると、アサ姫はそうと頷いてヒメコを手招きした。
「あの人のことなら気にしなくていいわ。もし偶然会ったら会釈だけすればいい。お互いに干渉しないという約束をしたからこちらに寄り付くこともないから安心して」
そしてヒメコの手を取ってスタスタと歩く。その先に少し小振りの屋敷があった。
「父に造らせたの。佐殿の屋敷よ。
顎を上げて胸を反らせ、どうよと言わんばかりの姿勢で本館の方を一暼するアサ姫に、つい噴き出してしまう。
「まぁ、一の姫様。お父君との闘いに勝利されたのですね」
「そんな大層なものじゃないわ。ただ、あの狸親父めが渋って色々変な工作をしようとするからちょっと脅してやっただけよ」
はぁ、と曖昧に頷きながら、きっとちょっとどころの騒ぎではなかったのだろうなと想像する。
「五郎や妹達もこちらにと言ったんだけど父が反対してね。と言うより、父はもうあの人の言いなりだから。あの人は少しでも味方を増やそうと妹たちを懐柔する為に囲い込んでるのよ。でももし、父とあの人が、伊東の爺みたいに五郎や妹達を悪用しようとしたら断固戦うつもりだけどね」
鼻息荒く言い切るアサ姫。その時、その足元にタタッと少女が駆け寄った。
「母さま、抱っこ」
腕を伸ばして甘える女の子。アサ姫は言われた通りに少女を抱き上げるとヒメコの隣に並んだ。
「大きくなったでしょう?姫よ」
姫。佐殿とアサ姫の初めてのお子。ヒメコが乳母としてお世話を手伝った八幡姫だった。
姫が生まれてすぐのこと、佐殿とアサ姫に姫の名を相談された時のことを思い出す。
「私の最初の子は永くめでたくと千鶴丸と名付けたが叶わなかった。この子は姫だが、強く逞しく生き抜いて欲しい。だから父祖の義家公にあやかって八幡姫としたい。どうか?」
どうか?とヒメコに尋ねながら、佐殿とアサ姫は目を強く合わせ口を引き結んでヒメコの言葉を待っていた。二人の心の中では、既にそうと決めたことなのだろう。ではヒメコが口を挟むことではない。ただ、そっと何か視えないか聴こえないかと気を鎮めて兆候を窺うが、何も視えず聴こえなかった。ならば、その名に反対する理由がない。
「宜しいかと思います。ただ、その御名はとても強いので、厳重に秘しておくのが良いかと思います」
言えたのはそれだけだった。
そして今。姫は駆け回る程に大きく健やかに成長している。
「はい」と声をかけられ、手渡されるままに姫を預かる。
ずっしりと重くなった体。ヒメコの記憶の中ではまだ這い這いも出来ないくらい軽くて小さかったのに。でも懐かしい抱き心地。二年もあいて大きさも重さも全く違うのに、不思議にしっくりと身に馴染むその感覚にヒメコは改めて乳母としての自らの役割を重く感じて空を見上げた。
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