三十 似せ絵



「ヒミカ」

唐突に声をかけられてハッと顔を上げる。気付いたらその場には祖母だけが残っていた。コシロ兄の姿はもう無く、帰ってしまったのだと悟る。慌てて追いかけようとしたヒメコだが、その時丁度奥から出て来た母につかまってしまい、見送りにも出られなかった。

「まったく、おまえは今頃になって現れて。一体今まで何処で何をノロクサしてたんだい!」

怒鳴り声に振り返れば祖母が母を叱っていた。

「客が来るから瓜を冷やして、折の良い頃に持ってこいと言っといただたろう。とっくに帰ってしまったよ。本当に気の利かない子だね」

祖母は怒る時、母を子ども扱いする。確かにそう言われても仕方ないような態度をする母がいけないのだが、娘からしたら情けないことこの上ない。

「だって、何やら難しいお話をしてるんですもの。入る機を逃してしまいましたの」

「そこをそっと差し入れるのが嫁の気遣いってもんだろう。まったく。可哀想に汗だくで何も出せずに返してしまったじゃないか。一体どうしてくれるんだい」

怒り心頭の祖母に、だって、だって、と繰り返しながら、よよ、と泣く母。

「義母上様、ご安心召されよ。瓜なら幾つかお持たせしましたよ。重いからと嫌がるのを無理矢理ね。これで佐殿のお口にも入りましょう」

戸口に立ってニヤリと笑う叔父に、そうかいと満足気に頷いた祖母が、あーあとあからさまなため息をついて母を一瞥する。母はキーと悔しそうに袖を噛み、涙目で祖母を睨み付けると足音高く下がって行った。

それに続いて祖母と藤九郎叔父も去る。ヒメコだけがぼんやりとその場に残された。


お礼も言えず、見送りも出来なかった。

落ち込んでコシロ兄が居た辺りに心残りの視線を送ったヒメコは、そこに一本の紐が落ちているのに気付く。コシロ兄の長い垂髪を束ねていた組紐だった。髪を結い直した時に着物に紛れ、それが忘れられたのだろうか。ヒメコはそっとそれを拾い上げると懐に入れ、そそくさと部屋へと下がった。


部屋に戻ってから紐を取り出して小机の上の文箱に大事にしまう。ふと、邦通から預かった二つの巻紙のことを思い出し、改めて祖母の部屋を訪れた。

「お祖母様、北条館で藤原殿からお祖母様にと文を預かっておりました」

祖母は受け取るとぱらりと開き、ああと頷いた。

「鐘楼のことだね。おや、随分と絵の達者なお人のようだね」

「ええ。私の顔も描いて頂きました」

祖母はふうんと頷き、ぱらりとヒメコの前にそれを開いて見せて寄越した。

「二つあったが、此方も私が受け取っていいのかい?」

言われてそれに目をやったヒメコは、ギョッとして立ち上がった。それからその一枚に覆いかぶさるように飛びかかると祖母の手から奪い取り、その目から隠すように慌ててパタパタと畳む。

そこでやっと邦通の言葉を思い出す。一つは尼君にと言っていたけど、もう一つについては何も言ってなかった。そこで気付くべきだったのだ。

「いえ、これは、あの、一つはお祖母様にと」

「もう一つはお前にかい」

「は、はい。恐らくは」

途端に祖母が高笑いを始めた。

ヒメコは真っ赤になってそのもう一つを懐の奥へと押し込んだ。

「似せ絵かい。見事な筆だね。いつかお会い出来たら幸いだよ。ま、そちらはお前の好きにすればいいさ」

祖母の高笑いに、何事かと母が踏み込んでくる。ヒメコが懐に隠した物に鋭い視線を投げかけるが、ヒメコはそれを振り切り自分の部屋へと逃げ戻って戸の前に行李を引っ張って来て開けられないようにした。それから懐の奥でくしゃくしゃになった巻紙をそっと開いて指で皺を丁寧に伸ばす。

そこに描かれていたのは垂髪姿のコシロ兄の絵だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る