二十九 天道
「おやおや、これは」
比企の門の所で待ち受けていたのは藤九郎叔父だった。
「遠くから見たら狩野殿かと思いましたが、まこと小四郎君とは」
それから腹を抱えて喉が枯れるまで笑っていた。当然コシロ兄は憮然とした顔で何も言わず、サッと馬から降りるとヒメコを抱え降ろし、藤九郎叔父に軽く一礼して、またすぐに馬に跨って戻ろうとする。
だが藤九郎叔父がその馬の手綱をサッと奪って轡をとると比企の門内へと引いていく。普段ののっそりした動きとは別人のよう。京の公家のそれなりの家の出と聞いたが、意外にはしこくて卒がない。そういう所が祖母の気に入ったのだろう。娘の婿として、また佐殿の側仕えとして何だかんだと重宝されていた。
さすがのコシロ兄も無理には馬を取り戻せず、仕方なげに藤九郎叔父について行く。
「いやいや、比企の尼君のお言い付けで迎えに出ましたが、まさかそんな格好で現れるとは。尼君も驚かれるでしょう」
「お祖母様がどうかしたの?」
「客人が来るから招き入れよとのご命令で、わざわざ私が待たされてたんですよ。また挨拶もせずに戻ろうとするだろうからと。さすがは尼君。しかしそんなに太って現れるとはさすがに誰も思いませんな」
そしてまたワハハと笑い出す。
「これは貫禄をつける為に一の姫様が中に沢山着せたのです」
ヒメコが慌てて弁解するのを藤九郎おじは笑って聞き流しながら馬屋へと案内した。
「姫は確かにお届けした。私は客ではないのでこれで」
そう言ってコシロ兄が帰ろうとするのを、藤九郎おじはいいえと首を横に振り
「比企の尼君が小四郎君とお話をしたいとお待ちなのです。馬も少しは休ませないとさすがに可哀想でしょう?さ、どうぞこちらへ。ああ、その直垂の下の着物はこちらでお脱ぎになるといい。さぞ重くて暑いでしょうから」
そう言って有無を言わさず館の中へとコシロ兄を招き入れる。ヒメコもその後に続いた。
「ねえ、お祖母様はどうしてコシロ兄が来るとお分かりだったの?」
尋ねたら、藤九郎おじはさあと肩を竦めて
「尼君様の眼力については私なぞより姫の方がお詳しかろう?」
それからクワバラクワバラと唱えつつコシロ兄を奥へと案内する。
奥では祖母が待ち受けていた。
「やっと顔を出したね。あんたが北条の次男坊かい。賢いからと佐殿が気に入って色々教えてると聞いてたから前から会ってみたかったんだよ。賢いったって実際に話をしてみないとわからないからね」
歯に衣着せない祖母の物言いにヒメコはそっと首を竦めてコシロ兄の様子を窺う。コシロ兄は祖母にジロジロと睨め付けられながらもいつもの無表情で沈黙を保っていた。暫くコシロ兄を観察していた祖母がチラとヒメコを一瞥し、ふうんと一声あげてまたコシロ兄に目を戻す。
「あんたは老子が好きなんだってね。理由は?」
「惹かれることに理由などない」
淡々とした答えに祖母は笑った。
「そうだね。では質問を変えよう。天道についてだ。天道とは神仏の示す自然の摂理。万物万民の道しるべとなるもの。私はそう認識している。ところで、この国には帝という現人神が居られる。天道を神がお示しになる道とするなら、現人神である帝のお示しになる道も天道と言える。ということは、帝のお示しになるその天道にも我らは無条件に従うべきか?あんたならどう考える?」
ヒメコはぼんやりと祖母の口を見ていた。この国において絶対的な存在は主上だと教えてくれた筈の祖母が、何故そんなことを聞くんだろう?
コシロ兄は祖母の問いから殆ど間を置かず「従う」と答えた。だが、ふうんと唸った祖母に続ける。
「ただし世の乱れは天道からの踏み外しに起因すると聞く。ならばそれは正されるべきと思う」
珍しくはっきりと言い切るコシロ兄。でも祖母が「それは佐殿の意見かい」と問うたら微かに首を傾げた。
「まぁいいよ。これからまた新しく考えればいい。佐殿と一緒にね。因みにあんたの名は?」
「まだ名乗れる名がない」
「そうか。北条殿が戻ってから元服するって話だったね。ま、じゃああんたもそろそろ戻って佐殿を頼むよ。あのお人は言うことは大きいが、存外頼り甲斐がなくて小心者だからね。苦労をかけるが、これも縁と諦めとくれ」
ヒメコはそれらのやり取りを不思議な感動を持って聞いていた。その後も何度か二人の応酬があったが、その殆どが京の都の話だったのでヒメコにはよくわからず耳にも残らず、どこか夢心地でいた。
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