二十六 前触れ

ヒメコは馬屋に入った。いつもと同じように馬のたてがみをすいているコシロ兄。


「コシロ兄」

声をかける。珍しくコシロ兄がこちらを振り返った。背にかかる長い垂髪が揺れる。

「あの」

振り返るその目は穏やかで、何の用かと聞いてくれている。やっとコシロ兄の気持ちが見えるようになってきたのに。向き合って貰えるようになってきたのに。なのに彼はもうじき別の姫と結婚してしまう。

黙りこくるヒメコに、コシロ兄はまた馬に向き直り、しゃがんで馬の腹を撫で始めた。

「あのね」

口を開くも何も続かない。コシロ兄も黙ったまま馬を撫で続ける。でもヒメコがここに居ることを受け入れてくれている。そう感じる。

ぽろりと涙が一粒溢れた。地に落ちないよう慌てて手で受け止める。でも堰を切ったように後から後から零れ落ちる涙は、掌からあふれてポタポタと地に染みをつくった。

咄嗟にヒメコはコシロ兄の背に顔を埋めた。泣いた理由を説明出来ないから。すぐに泣く困った子供だと呆れられるのも嫌だから。忍び泣くヒメコの横で揺れる長い髪。元服したらこの姿も見られなくなる。

そんなの嫌だ。

仕方ないとわかっていても嫌だった。

嗚咽は我慢したけど、きっと漏れてただろう。コシロ兄は動かずにじっと背を貸してくれていた。


「痛いの痛いの飛んでいけ」

声が聞こえたような気がしてハッと顔を上げる。

でもコシロ兄はしゃがんだまま。


ヒメコは首を横に振った。

まさか。

でもまた聞こえた。

「痛いの痛いの飛んでいけ」


小さな小さな聞こえないくらいの声。でもコシロ兄の声だ。

もうヒメコは堪らなくなってコシロ兄の背を叩き始めた。

「嫌だ、嫌だ、嫌だったら嫌なの!」

コシロ兄が振り返る。驚いているのだろう。いつもより開かれた目がヒメコを捉える。それでもヒメコの手を抑えようとはせず、好きなようにやらせてくれた。

ふと、腑に落ちた。

初めて会った時からコシロ兄を振り回してばかりのヒメコは、彼にとって手のかかる妹の一人だったのだ。わがままで面倒な小さな子。ただそれだけの存在。

その時、ヒメコは早く大人になりたいと思った。

早く大人になってコシロ兄の前に現れたい。妹ではなく姫として見てもらいたい。

心からそう願った。


「ヒメコ様」

声に振り返れば、アサ姫が馬屋の入り口に立っていた。その腕の中に姫はなく、どこか尖った気を放っているように感じて、ヒメコはこくりと唾を飲み込んだ。

「ちょっとこちらへ」

何だろう。

姫に何か?

それとも佐殿に?比企の誰かに何か?

嫌な予感に苛まれながらアサ姫の後を追う。



「比企に戻って欲しいの」


単刀直入にそう言われる。鋭い瞳に真っ直ぐ見据えられ、ヒメコは身が凍るように感じた。

「姫に何か?私、何かいけなこいことしました?それとも比企から何か文でも?」

一息に問うて縋り付いたヒメコに、アサ姫は首を横に振って口を横に引き結んだ。

「直に父が戻るの。もしもの事があるから比企に戻って頂戴」

「もしもの事って」

「佐殿との間に子が産まれたことを父には知らせてないの」

八重姫とそのお子が殺されたことを思い出す。


佐殿と姫が殺されてしまうと?」


アサ姫はじっとヒメコを見た後、大きく首を横に振った。

「いいえ。殺させないわ。佐殿も姫もね。でも兄は父に逆らえないだろうし、それは小四郎もそう変わらない。だから、いざの時は私が刀を手に取るつもり」

「お父上と戦うのですか?」

息を呑むヒメコに、アサ姫はフンと荒く鼻を鳴らして西の山に向かって顔を大きく顰めた。

「あの色惚け親父め、京から妻を連れて帰るって浮かれてるのよ。おまけに私には嫁に行けと。平家の口利きで新しくここらの代官になるとかいう山木殿との話を進めてるらしいわ。私を厄介払いしつつ京に慮ろうとする弱腰の姿勢が伊東のじじいそっくりで向っ腹が立つったらないわ。そうそう、娘がいつも親の言うことを聞くわけではないと思い知らせてやる。私はその首落としてでも断固佐殿と姫を守るつもりよ。いざとなったら二人は沼津から船で阿多美の走湯権現に逃がすつもりで、小四郎にはそう言い含めてあるの。小四郎は表立っては父に逆らわないけど、幼い頃から佐殿には頭が上がらないからね。走湯権現には何度も行ってて山伏修行もさせて貰ってるし、伊東の時と同じようにまた匿って貰えばいいわ。でもそういうわけで、貴女がここにいると佐殿の乳母の孫ということで問題になりそうだし、その身の安全も保証出来ないから比企に戻ってちょうだい」

サバサバと言い切るアサ姫にヒメコは内心驚きつつ、改めてその中性的な力強さに魅せられた自分は間違ってなかったと不思議に納得した。早い話が今は邪魔だから出てけと言ってるのだ。

「一の姫様、もしや私に大分気を遣ってました?」

するとアサ姫はまじまじとヒメコを見下ろした後、プッと噴き出し、それから手を合わせた。

「ごめんなさい。少しだけ猫は被ってたわ。だって佐殿から脅かされてましたから。比企の尼君の孫姫が見定めにくるぞ、と」

あっけらかんと言うアサ姫に、ヒメコもつい噴き出す。

「私には龍を視たんですって?聞いた時は驚いたけど、嬉しかったわ。正直言うと最初は警戒してた。何を告げ口されるかとね。でも一緒に食事して遊んで、歌を歌って踊って笑った。とても楽しかったし、貴女はとても可愛くて愛おしくなってしまった。だから貴女は比企へ戻って、私を信じて待っていて。貴女は姫の乳母だし、私の可愛い妹の一人よ。きっとまたすぐ笑って会えるわ」

ヒメコは笑顔で頷いた。

「今回は三郎兄上が送ってくれる筈よ。丁度そちらの方に行く予定があるし、小四郎は色々な支度があるから」

色々な支度。きっと元服と嫁取りのことなのだろう。

ヒメコはそっと馬屋を見てからアサ姫に向き直った。


「分かりました。比企に帰ります」

アサ姫がホッとした顔をする。一呼吸置き、でも、と続けた。

「でも私、コシロ兄が送ってくれるのでなきゃ嫌です。帰りません」

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