二十五 失恋
二十五 失恋
それから少ししてアサ姫は姫君を産んだ。産屋に入ってほんのひと時の間にもう赤子の泣き声がしたくらいの、文句のつけようもない安産だと産婆は笑った。母子の繋がりが余程強いのだろうと。母を助ける為に産まれる子はそのように産まれるらしい。そう聞いてヒメコは、自分が難産で肥立ちも悪かったと祖母が零していたのを思い出し、さもありなんと思った。
「ね、コシロ兄。あれ教えてよ。摑まれた腕を取り戻して相手の後ろにまわる技」
馬屋にいるコシロ兄の横に立ち、ヒメコは手を合わせる。でもコシロ兄は屈みこんで馬の蹄を丹念に手入れしていて返事もくれない
。目すら上げてくれない。でもヒメコはめげなかった。蹄の手入れが終わったら相手をしてくれることを知っているから。
彼は聞いてないようでちゃんと聞いていて、相手の求めに応じようとしてくれる。朝餉夕餉の時の家族の会話。朝の稽古。昼前の学びの時間。ヒメコはずっとコシロ兄の姿を目で追いながら過ごしていた。
また、アサ姫がそっと教えてくれた言葉もヒメコに希望をくれた。
「私が初めて佐殿に会ったのは丁度ヒメコ様と同じかもう少し下の頃。十も上の佐殿はまるで相手にしてくれなかったけど、縁があったのね。今はこうしているのだから」
まだ首の座らない小さな姫を胸に、幸せそうに微笑むアサ姫はとても気高く美しくて、いつか自分もそのようになりたい、いやなれる筈とヒメコは信じていた。
「姫姉ちゃん、逃げる稽古なら、ちい兄とじゃなくて俺とやろうよ!」
声と共に五郎に手を掴まれ引っ張られる。
あと少しでコシロ兄が立ち上がりそうだったのにと残念に思いながらも、よし、と手首を軽く捻らせて五郎の手を振り解こうとする。
が、
「あれ?」
解けない。
ヒメコのそれより小さくて可愛らしい手なのに、固く握られたまま外せない。
「うーん、よいしょ、えーっと、うーん」
自分より幼いからと手加減していたが、ちっとも自由にならなくて段々焦ってくる。
五郎がニヤッと笑った。
「もう離れないもん。これ外せなかったら、姫姉ちゃんの手は俺のもんだからね!」
そう言って繋いだ手をブンブンと振る。可愛い。弟がいたらこんなだったろうか。比企の家に連れて帰ってしまいたいくらい。
そんな事を考えていた時、不意に空いたもう片方の手が取られた。三の姫だった。
ヒメコ様、お伝えしなきゃいけないことがあるの」
三の姫はヒメコの手を引っ張って林の方へとズンズン進む。もう片方の手にくっ付いてる五郎も一緒に引っ張っていかれる。
林の中に入ると、三の姫はサッと館の方に目を走らせ、続いて馬屋へと視線を飛ばした。
あまり良い話ではないことがわかる。聞きたくないと思う。でもここまで来てしまうと逃げにくい。ふと繋がれたもう片方の手を思い出し、五郎にかこつけて離れようかとそちらに目配せするが、三の姫は五郎のことは全く気にかけずにヒメコの耳に口を近付けて手を丸め、有無を言わせずに話し始めた。
「大兄上と大姉上の所に来ていた文をこっそり見たの。もうすぐ父上が大番を終えて帰って来るんだけど、そうしたらコシロ兄をすぐに元服させて江間に移して、伊東の姫を娶らせるんですって」
「伊東の姫?」
「そう!それも佐殿のお相手だった八重姫らしいのよ。八重様は私たちの従姉妹だけど、コシロ兄より大分年上だし佐殿とのこともあったっていうのに。ね、ひどい話でしょ?」
憤っているせいか高くなりかける三の姫の声に、ヒメコは思わず自分の掌を三の姫の口にあてがうと馬屋へ首を向けた。
「その話、コシロ兄は?」
「大兄上も大姉上もまだ話してないと思うわ」
ヒメコは、そう、と呟いて林に背を向けた。
「私はコシロ兄にはヒメコ様がお似合いだと思ってたのよ。それがまさか伊東のじじいめ、八重様を押しつけてくるなんて。それを受ける父上もどうかしてるわ。本当に悔しいし、何よりヒメコ様と姉妹になりたかったのに残念でならないわ」
三の姫の慰めの言葉が耳に届いたが、ヒメコは立ち止まらずに馬屋に向かった。
コシロ兄が伊東の八重姫を妻にする。
北条を出てどこかに行ってしまう。
コシロ兄はヒメコよりずっと年が上。元服したら妻を娶るのは予想出来ていたことだった。
だけど。
ヒメコは馬がガツガツと踏みならす足音を耳に、山並みの上に広がる青白い空を見上げた。
だけどもう少し、もう少しだけコシロ兄の声が聞きたかった。姿を見ていたかった。
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