二十四 いたいのいたいの
それはやめておけ」
耳元で囁かれる低い声。
目を上げれば、すぐ目の前にコシロ兄の顔があった。細面に長い首。丸くてふっくらと厚みのある大きな耳がやや下の方についている。父のそれより存在感のある綺麗な耳を食い入るように見ていたヒメコの目が捉えられる。少し吊り上がった目尻とやや薄い色の瞳。この瞳は前にも見たような気がする。その瞳に困惑の色が混じった瞬間、ヒメコは我に返った。
「きゃあ!」
悲鳴をあげて左手に掴んでいた物をボロリと取り零す。直後、うっという低い呻き声と共にその薄い色の瞳は固く閉じられた。
え、何事?
キョトンとするヒメコの目の前には床に転がる大きな石と、そしてその下敷になってるコシロ兄の足。
え、私が落としたのって、この大きな石?
「ごめんなさい!私、私、なんて謝っていいか。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」
平謝りに謝るけど、足りない。絶対足りない。彼に迷惑をかけるのはもう何度目だろう。
「ヒメコ、もういいそうだぞ。もう謝るな」
佐殿の声に恐る恐る顔を上げる。でも怖くてコシロ兄の方を向けない。
「それにしても、本当にそなたは怪力の持ち主だな。まさか几帳の台座を左手だけで軽々持ち上げるとは」
「本当に。神事の時もその力で助けてくれたのね。最初は信じられなかったけど、こうして実際に見て納得したわ。でも佐殿、もうヒメコ様をからかっては駄目よ。巫女の力は本当はいざという時の為のものなのでしょうから」
佐殿とアサ姫が話しているけれど、ヒメコは何も言えずに俯いた。ヒメコ自身が信じられなかった。佐殿のからかいに、ついカッとして手近にあったものを掴んだのは何となく覚えてる。だけどまさかそれが几帳の台座だったなんて。
皆の話によると、ヒメコは台座の重石を鞠のように軽々と持ち上げて投げようとしたらしい。それはコシロ兄が止めてくれたので事なきを得たが、ヒメコはその台座の重石を事もあろうにコシロ兄の爪先の上に落としてしまったのだ。
ありえない。
床の上の台座に目を送る。几帳の台座は大きな重い石で出来ている。普段、大人が両手で持ち上げて移動させるものだ。子どものヒメコが片手、それも利き手でない左手で掴めるような代物ではない。だけど、あの場にいた皆がそう言うのだから認めるしかない。
「本当にごめんなさい」
囁くように言って、そっとコシロ兄の様子を窺う。
部屋の隅、むっつり顔のまま足を投げ出して手当てして貰っているコシロ兄。とても、もういいと言ってくれた顔には見えない。でもヒメコのした事を考えれば当たり前の反応だろう。
「い、痛かったです、よね。骨が折れたりはしてない?歩ける?」
おずおずと尋ねるが、やはり何も答えがない。泣くに泣けず、ガックリと肩を落としたヒメコの耳にパコンという音が届いた。
「小四郎ったら、このしんねりむっつり!首ばっか振ってないでちゃんと返事なさい!」
アサ姫がコシロ兄の後ろに立っていた。その手の扇でコシロ兄の頭をパコパコ叩いてる。コシロ兄は叩かれ慣れているのか、されるままに黙ってアサ姫を見上げている。
「元はと言えば、あんたが鈍くさいから悪いのよ。重石くらいサッと避けなさいよ。ヒメコ様が持ち上げたのを素早く受け取ってそっと戻すくらいの余裕を持てなかったあんたが悪い。そしたらヒメコ様も泣かなくて良かったし、あんたも怪我せずに済んだんだから。全て鈍くさい小四郎の責任よ!」
無茶を言うアサ姫にギョッとする。
「いえ!私、泣いてませんから!」
でも頬に触れたら、アサ姫の言葉通り泣いてしまっていた。慌ててゴシゴシと顔をこする。あんな怪我をさせておいて、更に泣いてコシロ兄を追い込んでしまうなんて。改めてコシロ兄に申し訳なく、いたたまれない気持ちになる。
「これは、違うんです。ごめんなさい。悲しいとか辛いとかで泣いてるんじゃなくて。ええと」
「い、痛い!そう、痛くて!右手が痛いの!だから、なの!」
叫んだら、本当に右腕がジンジンと痛みを強く訴えてきて、ボロボロと大粒の涙が溢れ出た。涙は後から後から溢れて止まらない。腕よりも胸が痛くて痛くてヒメコは泣いた。声をあげて泣いた。
アサ姫がそっと近寄って抱きしめてくれた。トントンと背を叩き、頭を撫でてくれる。
「ヒメコ様、いいのよ。泣いていいの。あなたはいつも懸命に大人ぶっていい子であろうとするけれど、そんなに頑張らなくていいのよ。お父上もお母上もいない、こんな知らない土地で貴女はよく頑張ってるわ。でもそんなに頑張らなくていいのよ」
それから優しく右肩を摩ってくれた。
「痛いの痛いの飛んでいけ」
小さく優しい歌声。
懐かしいと思った。
母がこんな風に歌ってくれた記憶はない。でも懐かしいと思った。だから安心してアサ姫の胸に抱かれて目を閉じた。
トクトクと耳に届く波の音。
アサ姫とお腹の中の子が歌ってる。声を合わせて歌う祝詞のようにヒメコには聞こえた。
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