二十三 山伏と乳母
次に目覚めたら、アサ姫がヒメコの顔を覗き込んでいた。
「ヒメコ様、ごめんなさいね。痛くて辛かったでしょう。気分はどう?何か口に出来そう?蜜柑を絞ったのだけど飲めそうかしら?」
「一の姫さま」
ヒメコは身体を起こした。でも手をつこうとして右腕が出ないことに気付く。目を落とせば、右腕は布でがっちりと身体に固定されていた。
「ああ、右手は動かしてはダメよ。やっと熱は下がったけど、まだ安静にしてないと」
そう言ってヒメコを抱えるようにして浅い器に入った蜜柑の搾り汁を口元に近付けてくれる。
「一の姫様こそお身体に障ります。だってややこがいるのに」
自由になる左手で何とか身体を支えてアサ姫を見る。でもアサ姫はにっこりと微笑むとそのお腹に手を当てた。
「全然障りになんかならないわよ。だって何も変わらないもの。確かに神事の時は少しだけふらついたけどヒメコ様が守ってくれたからどこも怪我しなかったし、産婆さんも何も心配いらないって。それよりも、よく今までややこの存在に気付かなかったものだと呆れられたわ。そう言われると少し太ったかしらと気にはしてたんだけど、まさかだったわ。産婆さんに診て貰った今でも私自身はまるで自覚がないのよ。なのにヒメコ様はややこがいるのがわかったのでしょう?さすがは巫女ね」
「いえ、私は視えたわけではないんです。コシロ兄がそう言ったのが聴こえただけです」
「小四郎が?なんで小四郎が知ってるのよ。佐殿も気付かなかったのに」
そう問われても首を傾げるしかない。
少ししてコシロ兄が呼ばれて部屋に入って来た。でもだんまりのまま部屋の入り口付近に腰をおろしてしまう。佐殿が奥へと呼ぶが、軽く足を崩す程度。でもそれが彼の普通なのか、佐殿は気にせずに話し始めた。
「小四郎、私もアサも気付いてなかったアサの懐妊に何故おまえは気付いてたのだ?そして、気付いてながら何故何も言わなかった」
コシロ兄は左横へと目を流し、それから重そうに口を開いた。
「中原殿が京に行く前にそう言っていた。大姉上は鈍感で暫く気付かないだろうから無理をしないよう見張れと」
「私が鈍感ですって?まぁ!あの山伏ったら失礼なんだから!」
アサ姫が怒り出す。それを聴きながらヒメコは何となくわかる気がした。
山伏や高僧も巫女と同じで気を視ることが出来る者が少なからずいると祖母が言っていた。前にチラと聞いた、京に行ってしまったという山伏がそうだったのだろう。
「中原の羽中太か。今頃京で弟にしごかれてるだろうな」
佐殿は愉しげに笑った後、ヒメコに向き直った。
「というわけで、アサの出産まで、いや出産後もそなたにはたっぷり働いて貰うぞ。乳母として母子を護ってくれよ、ヒメコ」
また佐殿の「というわけだ」が出た。
内心うんざりしつつ、はいはいと聞き流したヒメコだったが、一語聞き咎めて振り返った。
「え、乳母として?」
うんうんと頷く佐殿。
「何を言ってるの?無理に決まってるでしょ!」
子どもの自分に赤子なんて育てられるわけがない。それも乳母だなんて。
「いや、問題ない。私が生まれた時の乳母の中には九つだった子もいた」
乳母とは、主家に任命されその生涯を主家とその生まれた子に捧げ、忠誠を尽くす約束を交わすもの。確かに比企の祖母はその約定通り、佐殿を護り助けているが、それを自分が継げと?
「で、でも乳母の役は普通は夫婦で、そして一家総出で務めるものじゃないの?」
「まぁ、そういうことが多いが、何分にも私は流人だし贅沢は言ってられん。そなたは比企の代表として、まぁ適当に頼む。その内に夫が出来れば一緒にやってくれ。ああ、というわけで、小四郎、おまえも引き続きアサとその子を頼むぞ」
「な、な、何が、というわけなのよ!」
確かにコシロ兄に求婚はしたけれど、ままごとだと笑って流したくせにこんな所で蒸し返してくるなんて。
咄嗟にヒメコは自由な左手を伸ばして近くにあった皿を掴むと佐殿に向かって投げつけた。でも皿は佐殿には当たらず、カランと軽い音を立てて床に転がる。佐殿がニヤリとからかい顔で振り返った。
「乳母と言っても乳をやる必要はないから安心しろ」
佐殿ったら、とアサ姫がたしなめてくれる声が聞こえたけどヒメコの腹は収まらない。固定された右半身を軸に、左腕をえいやと伸ばして丁度指に触れたそれをパッと掴んで持ち上げる。佐殿に向かって投げようとした時、左手の甲に何かが触れて動きを封じられた。
「それはやめておけ」
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