二十一 御田植神事
あーあ。
ヒメコは重いため息をつく。
「妻にしてください!」
決死の覚悟で為されたヒメコの求婚は子どもの可愛らしいままごとと微笑ましく見守られ流されて終わった。
コシロ兄は一瞬、何を言われたのかわからないという顔をしてから、ひどく不思議そうにヒメコを見つめ、それから僅かに眉を寄せてアサ姫の方を振り返った。
殆ど表情を表に出さないコシロ兄だけに、その変化が彼の気持ちを全て物語っていて、ヒメコの浮かれていた恋心はあっという間にぺしゃんこに潰れた。
嫌なんだ。
困らせてしまった。
胸の奥が冷えていく。
どうしよう。
でも口から出してしまった言葉は取り消せない。ヒメコは泣くに泣けない気持ちでその日は過ごした。唯一救いとなったのは佐殿が笑って言ってくれた言葉だった。
「昔、一の姫もまだ幼い頃に私の妻になると言って皆に笑われていた。私も笑って聞いていたものだったが、気付けばその通りになっていた。生きていれば何があるかわからんのが不思議で楽しいものさ」
アサ姫を見れば、アサ姫は少し懐かしそうな申し訳なさそうな顔でヒメコを見返して静かに微笑んで頷いてくれた。
そうだ。将来どうなるかなんて誰にもわからない。今は今やるべきことをやるだけ。
ヒメコは気持ちを切り替えると僅かに持ってきていた荷の中から白の水干を出して広げた。
「ヒメコ様、それなぁに?」
四の姫に聞かれ、明日の衣装だと答えると、今着てみてくれとせがまれる。着替えてみせたら、四の姫が少し残念そうな顔をした。
「なんだ。巫女舞って五節の舞姫みたいに華やかな衣装で舞うものではないのね」
三の姫も不服そうに唇を尖らせている。
「その昔、日本武尊が女装して熊襲を倒したように、神事では男女が異装して舞うことがあるんです」
「え、じゃあ、男は女物、女は男物を着るの?」
途端、きゃあと皆が盛り上がる。
「私も男装する。五郎、あんたは姫の格好よ。交換しましょ」
「えぇっ!やだぁ!」
俄かに盛り上がってはしゃぎ出す姫たち。五郎やコシロ兄まで巻き込んで大変な騒ぎになった。
翌日。
「高天原からに〜」
廣田神社の神職の祝詞に皆神妙に頭を下げつつ、皆わくわくとしながら合図を待つ気配が満ちる。
「天津祝詞の太祝詞を宣れ〜」
神職が口を噤んで子ども達を見る。
子ども達が揃って笑顔で口を開いた。
「ひとふたみぃよ。いつむぅゆ、ななや、ここのぉたぁり」
綺麗に重なって林の葉を震わせる子らの響き。何回か繰り返した後、ヒメコの合図で子らは口を噤んだ。後を神職が続けて祝詞奏上が終わる。
早苗が運び込まれた。
「たくさん、たくさん上がれ。どうか豊作になりますよう」
わぁっと人々が殺到して大楠を取り囲む。
ヒメコは邪魔にならないようその輪からそっと離れて子ども達の様子を見守った。
本当に。皆の田が豊作でありますよう。この村も隣の村も比企の村も。もっともっと遠くの村も全ての村が豊作でありますよう。
手を合わせて祈る。
歓声や拍手。走り回る人々の足音。
ふと、その中で一筋だけ、ピンと糸のように張った気を感じた。
ヒメコはそっと辺りを見回す。
ややこが危ない。
聴こえた声。
それはコシロ兄のものだった。
ややこ?
首を巡らしコシロ兄の姿を探す。
コシロ兄は人混みをかきわけるようにして大楠に向かっていた。その先にアサ姫の姿が見える。アサ姫は早苗を手に大楠へとにじり寄り、その腕を横から斜めに上へと振り上げ、早苗を放る所だった。咄嗟にヒメコもアサ姫に向かって駆け出す。投げ放たれる早苗。綺麗に弧を描いたその薄緑が、大楠の枝に見事に引っかかる。腕を上げて喜ぶアサ姫の姿が人混みに飲まれて見えなくなる。その時、神職が大きな声を上げた。
「そこまでです!皆さん、ご覧ください。沢山の早苗が枝に乗りました。今年は豊作間違いなしですぞ!」
鳴り響く拍手と歓声。
でも、人の輪が今度は一気に外側へと向かおうとして、それに押されたアサ姫が体勢を崩して人波の中に消えそうになった。
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