十ニ 比企

「ヒミカ、何てこと!」


館に入るなり母が悲鳴をあげて取り縋り、おいおいと泣き叫び出す。


「だから私は反対したのです。姫を遠出させるなどいけないと!なのにお義母さまが私の言うことなど全く聞かず勝手にお決めになるからこんなことになりました。一体どうして下さるおつもりですか!」


あーあ。

ヒメコは心の中でそっと溜息をつく。

やっぱり母の癇癪が始まった。

確かにヒメコは着物もボロボロであちこちに怪我をして戻った。危なくなかったとは言わない。それはそうなのだが、母は何かあるごとに祖母とぶつかり、祖母に文句を言う機会を狙っているように見えて、それがいつも嫌だった。だから今回も母はそれ見ろと言わんばかりに祖母を批判し、大袈裟に涙を零して抗議の意を露わにする。母の特技は涙を流すことだ。噓泣きとは言わないが、いつでも好きな時に様々な種類の泣き方が出来るのは母の術の一つだとヒメコは思っている。

それに対し、祖母はそれとわかっているので敢えて真っ向からは対峙せず、ニヤニヤと意地の悪い言葉を返したり如何にも姑らしい小さないじめを返すことを楽しんでいるようで、それがまた母の癇癪を引き起こして愚痴とメソメソ泣きを長々聞かされる羽目になる。

だからヒメコは比企の館が嫌いだった。一人の例外を除いて。


「ヒミカの怪我はすぐ治るよ」

落ち着いた声と気配。

「塗り薬も塗ったし骨は大丈夫。だから案じることはない。ヒミカは強運の持ち主だから平気だよ。そう言ったろ?落ち着きなさい」

母を宥める低くて穏やかな声。

ヒメコは声の持ち主に飛びついた。

「父さま!」


「おかえり、ヒミカ」

女性と見間違うような美しい笑顔がふわりと艶やかに咲いて腕を広げて迎えてくれる。

ぎゅうと抱きしめられ、ヒミカはやっとホッと息をついた。

「ヒミカを送ってくれたという人の元へは、既に警護の者が武装して出ているから、おまえは安心して着替えておいで。お祖母様がお待ちだよ」


にっこりと微笑む父。

娘の目から見ても父は美しく華がある。それにヒミカの考えていることなどいつもお見通しで先んじて答えをくれ、そっと支えてくれる。だからヒミカは素直に返事をして自分の部屋へと向かった。背中に母の癇癪声がかかるが、それを宥める父の声が被さるのを耳にしながらさっさと逃げ出した。

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