七 少年と馬

「どうした?ヒメコ。濡れ鼠になって。おまえは本当に鈍臭いな。もっと身体を動かさんとここでは生きていけんぞ」

茶化しに来た佐殿の袖を引っ張ってどこか空いてる部屋はないかと尋ねる。

佐殿は手前の角の部屋を指差しつつ、まず着替えてこいと告げて先にそちらへ向かった。


「それで?そなたはどう視たのだ」

着替えて戻るなり佐殿が切り出す。

ヒメコは唇を結んだ。

「生き延びたいなら、一の姫を選ばぬのが佐殿の為と私は思います」

ゆっくりと言葉を選びながら答える。

佐殿はヒメコから目を離さずに胡座の膝の上に乗せていた文をそっと床へと下ろした」

「何故そう思う。此度も誰かの声がそなたにそう言わせているのか?」

ヒメコは頭の中を探った。

「いいえ、声は聴こえません。ただ、一の姫の背後に龍を見ました。大きな龍が玉に光を吸い込むのを。あの龍は危険です。佐殿の命も吸い取られてしまう。だから」

言い繋ごうとしたヒメコの前で佐殿は突然笑い出した。高笑いを二、三度繰り返した後に膝先に落ちていた文を拾い上げる。

「そうか、龍か。それは幸先の良い」

幸先がいい? 耳を疑う。

佐殿は文に目を落とすとそっと笑った。

「京の都は平家一門と院近臣、山門の諍いが増し、嵐が起きようとしている。そう書いてある。嵐を起こすのは龍の役目。京の黒雲はここ東国で大きな嵐となる。おまえの視た龍はその顕れではないのか?」

ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべ、至極満足気に文に目を落とす佐殿。ヒメコは薄気味悪くなって立ち上がった。

「とにかく!私は比企に戻って祖母に話をしないと。藤九郎おじをすぐ呼んでください。比企に戻ります」

「藤九郎はこの文と共に京から来た客人をもてなしてる。暫く動けん。

「でも、急がないと!」

「何故そんなに急ぐ?」

「だって、佐殿は死んでもいいの?死んじゃいけないんじゃないの?」

「死なぬ者などどこにいる?」

穏やかに問い返され、過去に口では「死ぬ」「死んでやる」と言いながら生き永らえた癖にと悪態をつきたくなる。

「わからないけど今すぐ帰らないといけないと感じるからです。何でもいいから、とにかく早く比企に!」

すると佐殿は立ち上がった。雨の為に閉じられていた蔀戸を上げて外を眺める。

「止んだな。わかった。ではついて来い」

踵を返して部屋を出ると廊を通り過ぎ、外へと出る。追いかけて草履を履き外へ出たヒメコの両脇を佐殿は「よいせ」と持ち上げると、まっすぐ馬屋に向かい鞍の上へと乗せた。馬屋の脇にいた下男らしき男に声をかける。

「小四郎、比企庄には前に連れていったことがあるな。覚えているだろう?あそこまでこの子を送って行け。急ぐそうだ。頼むぞ」

そう言って、佐殿は馬屋を出て行こうとする。

「え!?佐殿が送ってくれるんじゃないの?」

慌てて声をあげたヒメコに、佐殿は「いいや」と首を横に振った。

「先程言ったろう。京から客人が来ていると。案じるな、日が暮れる前には比企に戻れる」

そのまま去って行く佐殿。その背中を

見送りながら、やっぱり明日か明後日に、と言いかけたヒメコの隣に誰かが立つ。古い布の束をドサッとヒメコの後ろに投げかけると前へと回って馬の首に手を当て、その鼻先の手綱に手をかけた。カッポカッポと蹄の音がして馬屋の外に出る。外はよく晴れて日が燦々と照り注ぎ、濡れた枝葉から滴れる雨粒を反射して光り輝いていた。

「あ、虹!」

空に大きくかかる虹に目を奪われる。

でもその時、馬の鼻先がぐいと強く引かれて目を戻したヒメコは、手綱を握っているのが盗っ人の少年だと初めて気付いた。

な、な、な、何で盗っ人してた子に自分を送らせるの?

ヒメコの頭は混乱する。

『このなかには盗っ人として生きてきた子もいる。だがそういう子も、知や技を身に付ければ職人として立派に働くことが出来るようになる。そうすれば二度と盗みなど働かずとも一人で生きていける』

確かにあの時佐殿はそう言ってたけど、だからって、こんな急に仕事を与えなくてもいいじゃない。途中で気が変わって馬ごと盗まれたらどうするのか。自分も売り払われるかもしれない。

やっぱりやめよう。藤九郎おじを待って安全に帰ろう。

鞍から飛び降りようと覚悟を決めた瞬間、馬は速度を上げて走り出し、少年がヒメコの後ろにサッと跨った。先程後ろに投げ上げられた布の片端がメコの臍の前に回され、ヒメコの身体を固定するように鞍と馬の背との間に挟み込まれる。

ヒメコの両足はがっちりと鞍に固定され、身体は手綱を握る少年の両腕に抱え込まれ、身動きも出来ない。

これではとても降りて逃げられない。

悲壮な気分で北条館を振り返る。庭にいた子ども達が驚いた顔をしてこちらを見ている。何か声をかけられるけど聞こえない。あっと思う間もなく館の外を囲む堀の上の橋を渡り、方向を変えて駆け出す馬。

その上で

ヒメコはアサ姫に何も言わずに出てしまったことを悔いていた。もちろん佐殿が話してくれるだろうけれど、観音さまと妹姫たちにちゃんと挨拶も出来なかった。もう会えなくなるかもしれないのに。泣きたい気持ちで後ろを振り返ろうとするが、身体ががっちり固定されていて身動きがとれない。

それに、それより何より、馬の駆ける速度が尋常でなかった。

藤九郎おじや佐殿の馬は景色を眺められるくらいゆっくりで縦揺れも少ないのに、この馬は飛ぶように速くて景色を見るどころか、吹きすさぶ風の強さに目を開けることすら出来ない。それに高低差を気にせず走っているようで、宙に浮くような感覚と地にぶつかるような感覚が交互に来て、頭がガクガク揺さぶられてとても気分が悪い。でも下を見たら戻してしまいそうで

ヒメコは頭は下げつつ、歯を食いしばって顎は上げ、前方を睨むようにしてひたすら強風と振動に耐えた。足腰を固定してくれている布のおかげで振り落とされる心配は無さそうだったが、そのせいで逃げることも出来ない。

でも馬も人も途中で休みを入れる筈。その時こそ

そう思った時、突然風が止んだ。揺れが穏やかになる。カッポカッポと歩く速度になってヒメコの耳に音が戻ってくる。

鳥の鳴き声、枝の掠れる音。どこか水の流れる音。そんな自然の音なのに、何故か安らぎを感じない。どうしてだろう?

固く閉じていた瞼を、恐る恐る持ち上げる。

そこは山の外れ、林の入り口で、脇の崖から湧き水がチョロチョロと流れ落ちる穏やかな山道。

でもちっとも心が落ち着かない。空気が尖っている。


ぱしり、と乾いた音に目を向ければ、三人の男たちが棒やら槍やらを手に馬の前に立ちはだかっていた。

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