姫の前――喋らない動かない男・江間義時の妻

第一章 若紫の恋

一 観音さま

一 出逢う

ヒミカです」

咄嗟にそう答えてしまってから慌てて自分の口を塞ぐ。

いけない。

隠しておくよう祖母と約束していた自分の真名を明かしてしまった。

どうしよう

言い直して誤魔化そうと顔を上げた時、その人と真正面から目が合った。卵型の面に真っ直ぐな鼻筋、少し褪せたような淡い色の瞳はメダカのように緩やかな弧を描いて吊り上っていたけれど、おかしそうに上がった口角につられて、太くしっかりとした眉尻が下がり、全体としてとても柔和な観音さまのような包容力を感じさせる女性がそこに居た。だからヒミカは真名を渡したことをかえって安堵した。だって祖母もよく言っていた。

「咄嗟の言動には神が宿っている。善いことも悪いこともその結果を受け入れなさい、と。

さて、私の真名を得たこの観音さまはどう出るか？

恐る恐る、でも不思議とワクワクと心ときめかせて観音さまを今一度見上げる。すると観音さまはそのメダカのような瞳を一瞬カッと大きく見開いて鷲のような鋭い眼光でヒミカの瞳の奥を覗き込んだ。その瞬間、ヒミカの胸は射抜かれたように一つ大きく躍動し、早鐘のようにドクドクと収縮を繰り返し始め、熱を帯びた何かが全身を駆け抜けていった。同時に背の下、腰骨からゾワゾワとした悪寒が首の付け根に向かって走り上ってきて、ヒミカはブルリと身を震わせた。

な、何これ。

コクリと喉が鳴る。でも呑み込む唾が出ない。そして声も出ない。口が開かない。熱い塊が喉につっかえたように留まって呼吸もままならない。

苦しい。

何なの、これ。

頭がガンガンとする。手が震える。息が上手く出来なくて苦しい。胸を押さえる。でもやっぱり苦しい。

「あ！」

誰かが小さく悲鳴をあげる気配がしたけど、ヒミカはそれが自分に向けられたものだということもわからなかった。