十七


 黒川精神療養院の地下で斉田治の話は続く……。


「お前あの女を知っているのか?」


 望月が東少年に訊いた。


「ああ、僕の高校のカウンセラーの先生なんだ」


 東少年が暗い表情で答えた。


「おい斉田。彼女の洗脳を解けないのか? 脳の装置をなんとか外せないのか!」


 望月の眼は真剣だった。


「僕には無理ですね。林崎先生の方なら何とかなるかもしれない」


「なんだって! 林崎先生だって。先生にも何かしたのか」


 東少年が斉田を睨みつけた。


「黒川は林崎と碧川を洗脳した。精神感応誘導装置を使ってね。僕の母にしたのと同じ悪辣あくらつな手段さ」


「なんだって!」


 東少年の表情に苦悶が読み取れた。


「とにかく先生に会わせてくれ」


 東少年が言った。


「いいでしょう、隣の部屋だ」


 斉田が部屋を出た。東少年と望月がその後に続いた。殺風景な部屋だった。狭い部屋の中にソファベッドがぽつんと置いてあった。他には小さなテーブルが一つ。それだけだった。ソファベッドの上に女が座っていた。タオル地のグレーのガウンを身にまとっていた。


 碧川の眼は落ち窪んでいた。生気のない退廃的な眼の色だ。暗黒を覗くような眼だった。寒気のするほど非人間的な眼だ。何処を見ているのかさえ定かではない。


「碧川先生……」


 東少年が目の前まで近づいて声をかけた。望月も碧川の前にしゃがみこんで様子をみた。


「あんた先生だったのかい。どうりで賢そうだったもんな」


 軽く望月が碧川の黒髪に指先をあてた。まったく無反応だった。いくらか首を動かしたのだがそれは望月の指が髪に触れたからかも、そうでない理由によるものかそれさえもわからなかった。身体が微妙に震えているのがわかった。


「斉田なんとかしろ!」


 望月が立ち上って斉田を真正面から睨みつけた。


「彼女は抵抗した。彼女は装置の命令に死に者狂いで抵抗したんだよ。装置からでる

電気的な信号を拒否しようとした。それが彼女の脳を逆に痛めつけた。脳に損傷を与えたんだ。母の場合と同じさ。哀れなものさ」


「装置を外せないんですか! 斉田さん」


 東少年が言った。少年の無表情な頬に一筋の涙が光っていた。


「黒川は腕のいい脳神経外科だった。並みの医者じゃ危険すぎて装置は外せない。それに外したところで彼女が正気の戻れるかどうかわからない。おそらく手遅れだ」


「おいっ!めそめそしてるんじゃねえぞ。俺は諦めないぜ。世界中の医者を探してでもこの人を治してみせる」


 望月が東少年の肩に手を当てて強い口調でそう言った。


「静かにしといてやったほうがいい。彼女の恨みは僕が晴らしてあげたんだ」


 斉田が言った。


「僕は…。先生をどこかいい病院に連れて行く」


 東少年が噛み締めるようにそう言った。


「東君。君はもう何処にも行かれない。諜報部に協力してくれといったじゃないか」


 斉田が妙な笑い顔をした。


「僕はねえ東君。黒川の変わりに諜報部の協力者になったんだよ。今や情報部の幹部クラスだ。黒川の時代は終わった。奴はもう必要がないんだ。これからは僕の時代だ」


「薄汚ねえ獣野郎が諜報部の幹部か。へどが出るぜ!」


「なんだって? あんただって獣じゃないか。望月さん。あんたにも仲間になってほしい。悪いようにはしないよ。僕達は超人だよ。人間なんか足元にも及ばない」


「人喰い野郎の仲間になんて死んでもならねえよ。それくらいなら幼稚園にでも入園したほうがましだ」


 物騒な眼をして望月が言った。


「おい!この人を連れてここを出るぞ。いいか」


「わかった」


 二人が呼応した。


「待ってくださいよ。もうすぐここにブラックナイトの隊長が来る。いずれ東君を引き渡すことになってるんだ」


「僕は諜報部になんか行く気はないよ」


「冗談じゃない! 僕は君をここから逃がしませんよ」


 斉田が不敵な笑みをつくった。


「おれらは二人とも超人だぜ。敵に回したら手強いぞ」


 望月が迫力のある口調で言い放った。


「ははははっ。ははははっ。あーはっはっはっはっは」


 斉田が気違いのように笑い出した。


「面白い話をお二人に聞かせてあげようか。スリリングでエキサイトする話だよ」


「悪いが今おとぎ話は聞きたかねえな」


 望月が顔をしかめた。


「東君の身体の中に不死身のウイルスが存在する。そのウイルスは東君を不死身にする共に東君の身体能力を驚異的に高めた。そして、そのウイルスは聖獣の血と相性がいい」


「なんだと! 何が言いたい」


 望月が言った。


「顕微鏡の中で聖獣の血と不死身のウイルスは見事に合体した。まるで雄と雌が重なるようにね。そしてまったく新しい血を創った。別格の血ですよ。僕にはその血が流れています。超獣の血がね」


「世迷い事かい。斉田。とうとうお前は頭がいかれたか」


「とにかくここを出ましょう。望月さん」


 東少年が碧川の手を取った。促すようにやさしく肩に手を添える。


「わからない人だな。ここからは逃げられませんよ!」


 斉田が東少年の前に立ち塞がった。


「斉田どけ! 邪魔だ!!」


 望月が斉田の肩をはらった。バランスを崩して斉田がよろめいた。


 その途端に斉田の胸部、肩、首、上腕の筋肉が膨張して見る間に隆起した。顔の真ん中が飛び出してきて獣の鼻が飛び出してきた。異様な獣面がそこに出現した。


 牙が顎を突き抜けるほどの勢いで伸び出し、白衣が張り裂けて蒼白い剛毛が全身から爆発したように生え茂った。その毛は滑るような異様な光沢を放っていた。全身ががたがたと震えている。眼は真紅に染まり血に餓えた凶獣そのものに変容した。巨大でグロテスクな怪獣がそこに誕生したのだ……。


「東! こいつは俺が何とかするから先生をどこか安全な場所にたのむぜ」


 望月が東少年の横顔を見てそう言った。


「……」


 東少年のまゆ尻がぴくんと跳ねた。


「とにかく、僕は先生をここから連れ出すよ」


「東、頼んだぜ」


 望月の眼に悲しい光が一瞬走ったのを東少年は見逃さなかった。少年はいきなり碧川を肩に担いだ。背負うような恰好だ。碧川はなす術もなくぐったりと東に身を任せた。

 東少年はその場から身をひるがえした。青い炎の瞳を持つ少年はもはや人間ではなかった。少年は病院の地下から矢のように疾走したのだ。まるで電光のようであった。

 すぐさま狂獣がその後を追おうとした。だが黒豹に瞬時に変身した望月がそれを許さなかった。黒豹は狂獣の脚めがけてその牙を躍らせたのだ。前にのめるように狂獣が倒れた。病院の裏庭である。


「ぐるうううううっ」と言う不気味な叫び声がした。


 狂獣はすぐに体勢を立て直した。脚にある鱗のようなものが二、三枚地面に落ちた。黒豹は攻撃をやめなかった。牙をむき、しなやかな筋肉を使って狂獣の喉元めがけて跳躍した。しかし狂獣の鋭い爪がそれを横にはらった。ゴムまりのように黒豹は弾き飛ばされた。

 途方もない力だった。空中に真っ赤な鮮血が吹き飛んだ。黒豹はしたたかに身体を病院に壁に打ち付けた。起き上がろうとしたが簡単にそれが出来なかった。苦しそうによろめいて黒豹が四肢で立ったが、それはもうかろうじて立ちあがったといってよかった。肩から鮮血が吹き出ていた。

 しかし黒豹の目は少しも野生を失ってはいなかった。相手を見据える。狂獣がそれを見下ろすような格好で立ち上がった。そして今度は狂獣の牙が黒豹に向かって閃いた。寸での所で黒豹がかわした。暫らくにらみ合いが続いた。


 不意に狂獣が東少年の消えた国道の方に向かって疾走した。黒豹が後を追った。二本の光芒が深夜の国道を走った。黒豹は肩で大きく呼吸をしていた。


 東少年は碧川を背負いながらも望月の事が気懸かりだった。相手があの狂獣ではさすがの望月も今度ばかりは危ないと嫌な予感がしていた。

 碧川をとにかく安全なところへと思った。しかし安全なところとはどこだ、と東少年は走りながら考えていた。病院でも警察でもいいと思った。全力で駆けて最初に行き着いたところに碧川を置き、すぐに望月のところへ戻ろうと少年は思っていた。

 

 国道を行くと林が風にざわめいていた。それを過ぎると松が側道に所々に生えている場所に出た。潮の香が匂う場所だ。波の音がした。東少年はいつの間にか海岸線を走っていた。後方から異臭がした。獣の気配だ。

 風下に向かってかけていたので尚更それを東少年は感じ取っていた。奴が傍まで来ているのだ。さすがに東少年といえども碧川を背負って高速で駆け続けるのには限界があった。スピードが完全に落ちていた。

 

 東少年は急速に走行速度を緩めた。このままでは奴に捕らえられる。その前に碧川を茂みに隠して迎え撃つ他にないと東少年は思った。完全に止まって碧川の様子を見ると碧川に意識はなかった。

 冷たい物が東少年の胸の中に突き上げてきた。碧川を抱きかかえると白い両腕がだらりと下に垂れさがった。心が痛んだ。同時に行き場のない怒りが込み上げてきた。

 雑木林の中に碧川を隠し、反対の方向の林の中に東少年は身を潜めた。獣が中々姿を現さなかった。とっくに追いついていいはずだった。


 月光のなかに黒い獣が姿を現した。芝生のように見える雑草のなかにその獣はいて辺りの様子を覗っていた。望月だった。東少年は安堵した。望月はやられていなかったのだと思った。東少年がゆっくりと望月の前に歩み寄った。黒豹が吠えた。その瞬間だった。少年の後ろの闇の中からその狂獣は無類の跳躍を見せて、寒気さえ憶える鋭利な牙をひらめかせた。

 情け容赦もなく、刃物のような牙が防御しようとした東少年の腕を噛み千切った。力なく少年の左腕が異様な方向に折れ曲がった。腕が付いているのが不思議なくらいの勢いだった。狂獣は既に林の中に居たのだ。

 望月がすぐさま狂獣の後ろから牙を立てた。背中に牙が食い込んだが途方もない力で振りほどかれた。黒豹の身体は海岸線に走るガードレールに思い切り打ちつけられた。


「ぎゃうぅぅ」という痛々しい叫びが響いた。


 身を起こすが既に後脚を引きずっている。黒豹は気高い兵士のようだった。自分の倍もあろう怪物に怯みもせず、再度挑みかかったのだ。

 だが、跳躍に高さがなく、牙は除けられて柔らかな腹に狂獣の牙が食い込んだ。そのまま咥え上げられ宙に投げ出されていた。身体が弓なりにしなって地面に叩きつけられた。よろよろと起き上がるが黒豹は瀕死の重傷を負っていた。

 

 東少年はその時、鮮血にまみれたまま海岸線の反対側の松林の中にいた。そして反撃の模索を開始していた。松の枯れ枝をへし折り槍のようにして右手に握り締める。

 

 一方狂獣は黒豹の息の根を止めに掛かった。最期のとどめを差そうと赤い双眼が狂ったように燃えたった。狂獣の跳躍と東少年の跳躍は殆ど同時だった。鋭利な牙が望月の喉笛に達しようとする数センチ手前のところで、東少年の手中の鋭い枝が怪物の左眼に突き刺さった。秘められた魔性の威力であろう。目の前の目標を突然喪失した怪物がいきり立った。


「ぶるぅぅ!」と吠えて身体を痙攣させたのだ。


 枝を払い落とそうとして身をくねらす。黒豹はその瞬間を捕らえて生き返ったように跳躍した。まさに最後の力を振り絞るようだった。

 黒豹は本能的に狂獣の喉に牙を食い込ませたのだ。狂獣が狂ったように暴れた。黒豹の身体はまるで大きな柱時計の振り子のように振られたが牙は抜けない。


 そのまましばらく悶えた狂獣は終いにガードレールを無意識に飛び越えていた。

 苦し紛れに岸壁に踊りだしたのだ。二匹の獣の息詰まる壮絶な死闘だ。と、突然、両者の姿が東少年の視線から掻き消えた。東少年が走ってガードレールから身を乗り出した。

 少年の瞳の中で黒い大きなかたまりが海に落下した。凄まじい水飛沫だ。海面が渦巻いて泡立った。

 落下点を中心に大きな波が円状に広がった。左腕から血が滴るのを右手でおさえて少年はその場にうずくまった。

 

 時間が静止したようだった。だいぶ時間が経過しても二匹の獣は海面についに現れなかった。


 少年は波が静まってもそこを動こうともせず、黙って黒々とした海面をじっと見つめていた。

 望月の最後のあの悲しげな視線が少年の脳裏に残っていた。東少年はあの時すでに望月の悲壮な覚悟を感じ取っていたのだ。

 胸中に苦悩と悲哀が突き上げる様だった。少年が這うようにして碧川ところに歩み寄った。彼女は眠るように目を閉じたままだった。

 


 ――月はまるで何事も無かったかのように中天に輝いて、怪しいばかりの月光が海面をただ照らしていた。



                

                 了

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獣の刻印 松長良樹 @yoshiki2020

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