十六
――月には魔性が潜んでいる。その優美な円型の裏側に、人の目を
その光を映す水面はゆらゆらと
池岸に二つの人影があった。二人の身のこなしは敏捷で、闇に紛れて気配を消し去っていた。双方の影は夜の中を高速で走った。それは己の中に獣を飼う青年と異彩なオーラを放つ少年の二つの影だ。
アクロバティックな動きはまるで二匹の獣を見るようだった。二人の間に殆ど会話は無かったがそれでいて妙に調和している。
二人はやがて驚くような速さで黒川精神療養院の裏口の前にたどり着いた。望月が裏口のドアに手を掛ける。鍵が掛かっていた。ノックを何回かするが反応がない。
「誰かいないか!」
望月が声を出しても返事が無い。もう一度ノックをした。やはり反応がない。一瞬望月が東少年を振り返って右手でドアのノブを引きちぎった。途方もない怪力だ。
入館して三階の黒川の寝室に上がったがそこには誰もいなかった。仕方なく地下に降りる。黒川の実験室に行く途中暗い長い廊下を通った。薄気味悪い通路を行くと左右に鉄格子の部屋がいくつか並んでいて妙な呻き声が聞こえてきた。
東少年が中を覗くと口を太い糸で縫われた哀れな女が骸骨のような顔をして鉄格子にぶら下がっていた。その奥には何人もの魔物のような人間がひしめいている。
そして最後の鉄格子の向こうにはやつれ果た元治が精気を喪失して天井を睨んでいた。どの人も恐ろしい
やがて望月の案内で黒川の研究室に突き当たった。鍵は掛けられていない。ドアを開け一歩踏み込むと、この世とは思えない妖気が二人の足元に忍び寄った。ひんやりとした空気だ。薄暗い光の中に机があり、そこに黒川の後ろ姿があった。回転椅子に座りこちらに背を向けていたのだ。
「黒川。少年を捕まえた」
望月が無愛想な声を出したが黒川が返事をしない。
「どうした。黒川。寝ているのか」
黒川は黙って背を向けたまま決してこちらを振り向こうとはしなかった。東少年が不審な面持ちで一歩前に出た。途端に異臭が鼻をついた。
「血の匂いだ!」
東少年がそう言うと黒川の足元の床に赤い粘液がぽたりと垂れた。
望月が咄嗟に回転椅子の背を持って正面を向かせた。その途端に異様な物体がごろりと床に投げ出された。
悲惨な光景だった。二人は何かに憑かれたようにその物を凝視した。それは黒川の生首だった。あんぐりと口を開き、この世を恨むように両眼を見開いていた。
凄まじい形相でさすがの二人が息を呑んだ。眼鏡に
「――黒川」
望月が重い口調で言った。東少年もさすがに言葉もなくその場に立ち尽くしていた。
「酷いな。胸糞が悪くなる」
望月が言った。
「驚いた。こりゃ惨いな。こんなまねは普通の人間にはできない。首を噛み切られてる。牙の跡が首にある」
東少年がしゃがみこんで状況を探っている。血と内臓の臭気で東が顔をしかめた。
「くそっ、誰がやったんだ!」
途方にくれた様子で望月が言った。
「獣さ。獣はあんた以外にもう一匹いる」
「もう一匹」
その時後ろでがたりと物音がした。それと同時に甲高い笑い声が響き渡った。二人が振り返りながらその場を飛び退いた。部屋の奥に下がったのだ。
その笑い声はおよそ気違いじみていた。耳につく虫唾が走るような笑い方だ。聴きようによっては、<からから>とも<はらはら>ともその笑い声は聞こえた。
「やっぱり戻りましたか、望月さん。それに東君。探す手間が省けましたよ」
そこには白衣の斉田治が立っていた。逆光の中の黒いシルエットだ。
「おまえ斉田か!」
望月が叫んだ。
「お久しぶりですねえ。望月さん。お元気そうじゃありませんか」
「斉田。昔話をしている暇はねえぞ。まさかお前が」
「そのまさかですよ」
斉田の白衣の胸元は真紅に染まっていた。ぬるりとした血糊が白衣のべっとりと付着していた。斉田は悪魔のような真っ赤な眼をしていた。おぞましい獣の眼だ。
「もしかして、あんたが二匹目の獣か」
東少年が低い声で言った。
「おまえが黒川をやったのか。えっ!」
望月が語気荒く言い放った。
「ええ、この僕が黒川を殺しました。牙で首を食い千切ったのですよ」
「おまえも獣にされたのか。俺と同じように聖獣の血を黒川に打たれたんだな」
「打たれたんじゃありませんよ。自分で打ったんです」
斉田が不気味な笑い方をした。口元だけに笑いを貼り付け、眼は全く笑っていなかった。
「なにぃ」
望月の眼に異様な光が走った。
「なぜだ。斉田」
「僕の話を聞いてくださいよ望月さん。僕はあなたと同じように、いや、あなた以上に黒川を憎んでいました。僕の母の斉田玲子はずっと黒川の奴隷でした。僕がまだ小学生の頃の話ですが、黒川は美しい母に言い寄り、母が拒むと力ずくで母を犯したんです。母を洗脳したんですよ。そして脳に妙な機械を埋めこまれた母は脳に障害を起こしそれがもとで若くしてこの世を去った」
「そうだったのか。その辺の事は知らなかった斉田。しかし…」
望月が息を呑んで言った。
「美貌が衰え、脳障害をおこした母を黒川はぼろ雑巾のように捨てたんですよ。そして若い看護師の女を傍に置き情事に耽っていたのです。黒川は僕がその事に気付いていないと思っていたのでしょうが、僕はすべてを知っていました。でも僕は小学生です。何も出来ず復讐の時をひたすら待ち続けていたのです。ずっと芝居をして黒川を欺き続けてきたのですよ」
「――それにしてもあなたのした事は異常だ。普通じゃない」
東少年が渋い顔をして言った。
「この僕がどれほど悔しく酷い思いをしたかあなたにはわかりますか。どれほど母が無念な思いをして死んだかあんた達にわかるのですか? わかりっこない! 黒川は悪魔だ。僕は奴を地獄の炎で焼き尽くし、復讐の槍で心臓を突き刺したかった。母は黒川に殺されたんですよ。僕の怨念はずっと胸の中で燃え続けていたのですよ」
「なるほど復讐か、本当にそれだけですか?」
東少年が口元を引き締めて言った。
「おいっ、ところで聖獣の中和剤はどうなった斉田」
「ははははっ、望月さん。あなたも結構甘いんですね。そんなもの最初からありませんよ。黒川の言う事など千に一つ位しか本当の事など無いのですよ。黒川があなたに注射しようとしたのは猛毒ですよ。神経を侵す猛毒だ。中和剤を打つといってあなたを騙し、危険なあなたを殺そうとした」
「ちくしょーっ!」
望月の眼の色が変わった。
「しかし、あんたなんで聖獣の血を自分で打ったりしたんだ」
東少年が思惟するように言った。
「黒川を殺すにはそうする以外になかった。助手の僕が殺したらすぐに足が付き、捕まってしまいますよ。それに……」
「それにどうした」
望月の瞳の中に絶望と怒りが渦巻いていた。
「獣になるのも悪くない。途方もない力が身体の奥底から湧き上がってくるのですよ。まったく屈服しない獰猛だが爽快な感覚だ」
「俺とは随分感じ方が違うんだな斉田」
「仲間ですよ。望月さんの」
「けっ!誰が仲間なもんか。おまえが女高生を喰ったのか」
「はい。喰いました。堪りませんよ。内臓の味が忘れられません」
醜悪な顔だった。いやらしい舌がぺろりと唇の周りを舐めた。
「実はもう5人ほど少女を喰いましたよ。まだ死体が発見されていないだけです。獣になると人の肉が喰いたくて堪らなくなる」
「てめえ。狂ってやがる!」
望月の眼の奥に悶えるような炎が燃え上がった。
「東君。君には価値がある。不死身人間だからねえ」
斉田が東を見つめた。鋭い眼つきだ。
「なんだって」
東少年が聞き返した。
「君には価値があると言ったんだ。黒川は密かに中国の諜報部、情報保全隊、ブラックナイトと結託していた。実は昔からの事なんですが黒川は諜報部と協力し合っていた。黒川は諜報部の科学者でもあったんです。でなきゃ東君の死体をすり替える事なんて出来ない。ブラックナイトは君を欲しがっている。黒川が君を研究しだしたのも黒幕は諜報部だ」
「そんな内幕はどうだっていいぜ。それよりあの人はどうした? カウンセラーの女だよ」
望月が心配そうな顔で斉田に問い正した。
「ああ、碧川貴子のことですか。かわいそうですが彼女はもう半ば廃人ですよ。隣の部屋に隔離してあります」
「やっぱり、碧川先生が……」
東少年の瞳は暗い洞窟を覗き込むようだった……。一瞬にして体内に氷魂が生じたかのように、呆然としてそこに立ったまま動かなかった。
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