十五
――神社の裏門近くに望月と少年とアユの姿があった。
「あなた豹なの? 人間なの?」
アユが怖がりながらも望月にそう話しかけた。まだ顔は蒼白なままだ。
「……」
望月は黙して語らなかった。
「なんとか言いなさいよ」
向こう気の強いアユが問い
「俺は昔、普通の人間だった」
望月がぽつりと言った。東少年は座ったまま空を眺めていた。
「人間だったって、それどういう事?」
アユは好奇心旺盛そうな眼を見開いている。
「俺は、獣にされちまったんだ」
望月が重い口調でそう言った。
「ここでじゃ、なんだから人目につかない場所にいこうよ。さっきの大立ち回りを見た人がいたら通報されているかもしれないし」
アユがそう言うので三人は神社から離れ、広場の古びたベンチに腰を下ろした。まったく人気のない場所だ。アユが自販機でペットボトルの水を買って来て、それを東少年が飲み干した。
「あんたさっき獣にされたと言ったね、よかったら訳を聞かせてくれませんか」
東少年が空を眺めたままそう言った。
「お前には関係ねえ事さ」
「……」
東少年はそれ以上きこうともしなかったが、アユは納得できない顔をしていた。
「関係なくないよ。こんな事をしておいて。説明してちょうだい。じゃなきゃ警察呼ぶから」
「警察は勘弁してくれ。性に合わねえんだ」
「もしかして……。まさか、あなた女高生と看護専門学校の生徒を襲った獣じゃないでしょうね?」
突然アユが何かを思い出したようにそう言った。緊張の糸がそこにピーンと張りつめるようだった。
「お嬢ちゃんはどう思う?」
「わからない」
「わからないか」
望月も苦笑いを浮かべて夕暮れの空を眺めた。
「悲しい事だが多分そうかもしれない。記憶には残っちゃいねえ。俺は自分のやった事さえわからないんだ」
「やっぱりそうなのね」
「信じないだろうが俺はある男に聖獣とやらの血を射たれた。そして獣に変身するようになっちまった。人体実験みたいなもんさ」
「……その人酷い人ね。あなたもう普通の人間に戻れないの」
アユが少し同情したようにそう言った。
「それは…… おっと、つい余計な事を喋りだしちまったな」
「余計な事じゃないよ。話してみて」
アユは興味津々な瞳を輝かせていた。
「中和剤があるらしい。それを打てば人間に戻れるらしいんだ」
「じゃあ打ってもらえばいいんじゃない」
アユが望月の眼をまじまじと見て簡単に言った。
「東道夫という少年を連れてくれば注射を打つと黒川という男が約束した」
その言葉を聞いて東少年の表情が一変した。
「あんたはやっぱり黒川の差し金か」
「ああ、そうだ」
少年の表情のない顔が急に不機嫌そうに歪んだ。
「黒川に僕は監禁されてた上に銃で撃たれたんだ」
「お前も黒川に酷い目に遭った口か」
「そう言う事になるかもしれない」
東少年が言った。少年はこの少しの時間に驚くべき体力の回復をみせていた。
「もし黒川の言う事が嘘だったら俺は奴を殺し、自分も死ぬ覚悟だ」
望月の双眸に悲しげだが鋭い光が走った。
「……」
その場を暫らく沈黙が支配していた。
「黒川って随分酷い人だね。あんたも黒川の犠牲者ってわけか。僕は記憶も曖昧なんだけど監禁されていて、隙を見て黒川の病院から逃げてきたんだ」
「ああ、そう聞いた。とにかく黒川は酷え奴だ。得体のしれない怪物みたいな人間が地下室に大勢監禁されている。元治だって犠牲者だ。奴はフランケンシュタインの怪物ってとこだ。黒川は気違いじみた実験の為ならなんでもする奴だ。すべて自分の思いどおりにできると思っているんだ」
「僕は地下室で拘束されてずっと寝ていたみたいだったけど、気が付いて危険を感じて逃げてきたのさ」
東少年が言った。
「そうか、本当に黒川は狂った奴だ。それに奴は飛んでもない色気違いだ。昔からいい女をさらってきて洗脳して看護師に仕立てて病院に置いた。最近はある女を洗脳して廃人みたいにしちまった。まったく酷えもんだ。俺がお前を連れ戻せば洗脳を解くと言ったが…。くっそーっ」
望月が思い詰めるように頭髪の中に指を突っ込んだ。
「ある女?」
「そうだ。品のある美人だよ。俺は酒場で彼女に会ったことがある。カウンセラーだと黒川が言った」
「カウンセラー……」
その言葉をきいて東少年の血相が変わった。
「名はなんていうの?」
「――確か、貴子とか言った」
しばらく沈黙があった。白い東少年の頬が尚、白くなったように感じられた。
「あんた望月さんと言ったっけ。僕はあんたが無理に連れて行かなくたってこっちから黒川のところに行くよ」
「なにっ!」
望月が戸惑った顔をした。
「やめてよ。ミッチ、そんな所に行かないで!」
アユが泣きそうな顔で二人を見つめていた……。
「やめてよ。やくざ映画の殴り込みじゃないのよ」
アユが心配そうに言った。
「僕にはなんだかあんたが哀れに思えてきたよ。黒川のところに行くよ」
「哀れだ? 冗談じゃねえ! やめてくれ俺はがきの同情はうけねえ」
「あんたの為じゃないよ。そのカウンセラーという人が気になる。もしかしたら……」
そこまで言いかけて東が口篭った。闇を覗くような瞳だ。そしてぽつりと東が言った。
「僕もあんたもはぐれ者さ」
「はぐれ者か、一緒にするな」
「僕が行けば人間に戻れる注射をしてくれるんだろう。黒川が?」
「そうだ」
「そうなら、一緒に行こう」
「そうかわかった。おまえに借りができたかも知れねえな」
望月に落ち着いた表情が戻っていた。
「しかし、あんたが女高生と看護専門校の生徒を襲ったなんて、僕にはとても信じられないな」
「俺は獣になると自分がコントロール出来なくなる」
「そうかな? じゃあなぜ、アユの声をきいて僕から牙を抜いたの?」
「……」
「あんたは自分をコントロール出来るじゃないか」
「なに!」
望月が東少年の眼をじっと見た。
「あんたは自分の事を悪い方に考えているだけかも知れないよ。僕にはそんな気がする」
「じゃあ、俺以外の誰が少女をやった?」
「わからない。たぶんその辺の事は黒川が知っているんじゃないかな」
望月の眼の奥に異様な光があった。かっと双眼が大きく見開かれ、何かに思い当たったような表情を浮かべた。
「黒川に確かめようじゃねえか!」
吐き棄てるように望月が言った。
「すぐにでも行きたいが、僕の身体はまだ完全に再生していない。少し時間をくれないか」
東少年がそう言った。
「わかった。お楽しみはとっておくよ。あした、午後十時。黒川精神療養院の近くの池のほとりで待っているぜ」
そういうと望月は夕暮れの中にその姿を消した。アユが呆然と東少年を見つめていた。
「アユ、僕は幽霊じゃないからそんな眼で見るなよ」
東少年がかすかに笑った
「行っちゃ駄目よ。ミッチ、危険な臭いがぷんぷんするわ」
アユは心配顔だ。
「行かなきゃならない。でも今夜は行くところがないんだ。アユの家に泊めてほしいが親が居るんだろ。僕を見たらきっと卒倒するな」
「親は今いないわ。久しぶりに温泉旅行に行ってるの。珍しく兄も一緒よ」
「そりゃ好都合だ」
――東少年が一瞬いたずら少年のような眼をしていた。
古めかしい二階屋のアユの家は妙に懐かしかった。アユは二階の自分の部屋に嬉しそうに東少年を迎え入れた。ソファに二人で腰を下ろす。アユが心配そうな顔をして東少年を再度覗き込んだ。
「でもさっきホント怖かったわ……。でも嬉しいよ。ミッチが生きていて」
はにかむようで、しかも優しいアユの言葉だった。まるで可愛いペットでも見るように生き生きとした瞳が少年を見つめていた。
「ありがとうな、アユ」
少年が照れたように言った。
「お前が来なかったら、僕は……」
「ねえ、何か食べる?」
はぐらかすようにアユがそう訊いた。
「ああ、僕は凄く腹が減った」
それをきいたアユが立ち上がって冷蔵庫に行った。そこで東少年もふらりと立ち上がってアユの後を追って冷蔵庫を覗き込む。
「なあ、なんでも食べていいか?」
「いいよ、何でも食べて」
それをきいた少年は冷蔵庫にあった牛の粗挽きをありったけフライパンに油をひいて痛めた。そして少し塩をかけてフライパンごとテーブルに持ってきてスプーンで口の中にかきこんだ。アユは目を丸くして見ていたが嫌な顔一つしなかった。
「超すごい食欲。でも変すぎる!」
アユはもう笑うしかなかったようだ。東少年はそれが済むとソーセージまで全て平らげた。少年の出血はいつの間にか完全に止まっていて、驚異の回復力を実現させていた。食べるだけ食べるとソファにごろりと横になった。
「恩に着るよアユ、僕が学校で虐められていた時おまえ、仲裁に入ってくれ事があったな、僕は今でも憶えているよ。アユは逞しいよな」
「そんなこともあったっけな」
アユがとぼけて言った。
「そんなことより明日は絶対行っちゃだめよ。あしたは一緒にあなたの家に行きましょう。あなたのおばあちゃんが喜ぶよ。そうに決まってる。おばあちゃんが気絶しないように見ててあげるよ」
「アユ学校は?」
「明日は祝日よ」
「そうか」
「そこで寝る?」
「ああ、小学生の時ここで漫画をいっしょに読んだ事があったっけなあ」
東少年はそんなことを独り言のように言って直ぐに寝息を立ててしまった。アユはソファの下に布団を敷いて休んだ。興奮でなかなか寝付かれないアユだったが仕舞に、少女らしい夢を見るような表情で寝入ってしまった。
だが翌朝の事だ。アユが目を擦って起きた時には東少年は既にいなかった。あわてて家中を探したが少年の姿はなく、テーブルの上に汚い字で書いた手紙が置いてあった。チラシの裏の白い部分にはこう書かれてあった。
『アユ、ありがとう。僕はどうしてもやらなきゃならない事がある。でもそれが済んだら、必ず帰って来るから。待っていてくれな。 道夫』
――それを読んだアユは地団駄を踏んだ。チラシをくしゃくしゃに丸めた時、瞳が潤んでいた。
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