十四
東少年は伊藤アユという女子生徒の家の近くの公園に居た。
伊藤アユは東少年の幼馴染である。中学二年生で家が近く小さい時から気が合い、いつも遊んだ女子だった。
東道夫が不登校になってもアユはあまり気にもせず、学校だけが人生じゃないなどと妙に大人びた事を言って東少年を慰めようとした優しい子でもあった。
東少年はもう一時間近くこの公園にいた。時々空を見上げて溜め息をつく。空が茜色の夕暮れ時だった。――このままここにいれば幼馴染みのアユにもしかしたら会えるかもしれない。という思いが東少年をここに留めていた。
黒川精神療養院を出て東少年は一直線に自分の家に帰ろうとした。一刻も早く自分が生きていることを祖母に伝えたかった。少年の家庭は母子家庭で父は警察官だったが、東少年の物心が付く頃に殉職してしまっている。母はその後精神を病んで施設に入ったきりなのだ。だから東少年の家庭は現在祖母と二人暮らしだった。
しかし東少年は帰宅するのが怖かった。黒川が自分を捕まえようとしているなら真っ先に家を調べ、家の周りに誰かを張り込ませるだろうと思ったからだ。自分が簡単に家に帰って祖母までも巻き添えにしたくない。
それに少し前だが東少年は碧川貴子のマンションにも行ってみた。しかし碧川は不在だった。オートロックのマンションのインターホンを押してみても、誰も出ては来なかった。東少年は今のこの事態を碧川に相談しようとした。
碧川のことを思うと東少年の心はナイーブに揺れ動いた。自分にも整理しがたい感情が胸を締め付けていた。窓のカーテンは閉まったままだ。碧川の身に起こった悲劇を東少年が知る由もない。少年が覚醒した時、洗脳された碧川は既に黒川の手に堕ちていた……。
黒川仁が言うように自分はもう平凡な少年ではない。不死身を人に知られたら何かと厄介なことになるだろう。学園にはもう帰れそうにもない。東少年はまたそう思った。
重い鉛を飲み込んだような思いが胸の中にあった。どうしたらいい? 東少年は自問自答しながらそこに佇んでいた。
東少年が何かの気配を背後に感じ振り返ろうとした直後、後ろから声がした。
「
突然の呼びかけに、東少年は水でも浴びせられたような表情で振り向いた。革のジャケットを着ていて、その下の白いワイシャツの襟元は大きく開かれていた。銀色のネックレスが輝いている。精悍な眼差しが東少年を捕らえていた。
「誰ですか、あなたは?」
東少年が息を呑むように言った。
「名は望月丈と言う」
「望月丈……。どうして僕の名を?」
お互いがお互いを見た瞬間、鋭い気迫が弾け飛んだ。両者とも相手の内包しているエネルギーが並の人間のものでないと即座に感じ取っていた。
「どうやら君が超人少年らしいな」
「あなたは黒川とかいう人物の仲間ですか?」
「いや、仲間じゃない」
望月が渋面で否定した。
「じゃ、なんですか?」
「悪いがおとなしく俺と一緒に来てくれないか」
望月の眼に野生の光が垣間見える。
「あいにく見も知らない人に付いて行くほど、僕は勇敢じゃないんです」
東少年は驚くほど落ち着いている。
「来てくれないと、力づくと言う事になる」
ただの会話ではなかった。相手の隙を探るような暗黙の攻防が既に始まっていた。望月の眉間に皺が寄った。東少年はほとんど無表情だ。
「力づく? 益々行きたくなくなった」
「お前は強いんだってな。超人と聞いた。元治に重症を負わせたんだろう」
「元治? あの怪物の事ですか。どうしてその事を知っているのですか。やっぱりあんたは黒川の手先なんだろう」
「とにかくお前を連れて行く。何の恨みもないがそうしなければならない」
東少年は立ち上がり無意識に身構えていた。両足を開いて腰を落とし両腕を腰のあたりに持ってくる。体術の基本の構えだ。
なにも東が体術を最初から心得ていたわけではない。無意識の少年の身のこなしが体術の基本の構えに酷似していたのである。東少年の真後に立って至近距離まで気配を全く感じさせない人間など今まで居なかった。相手が強敵である事を東少年の魔性が直感していたのだ。
「どうやら、素直には来てくれないようだな」
「ああ、行きたくないよ」
望月丈の瞳が爛々と輝きだしていた。野生の獣の眼だ。東少年の眼のなかにいつの間にか青色の炎が燃え上がっていた……。
東少年の全神経はたちまち究極まで研ぎ澄まされていき、内部に高圧エネルギーが充満していく。望月はその変異に敏感に反応した。一瞬、望月の姿がその場から掻き消えた。
望月の脳内に得体の知れない衝動が巻き起こり、人間の心が彼方に霞んで消え去った。周りの事物がゆらゆらと揺らめき、異様な世界へと変貌を遂げていった。全身の感覚が増幅していく。望月丈はたちまち獰猛な獣と化していた。
東少年は不動だったが完全な臨戦態勢を取っていた。獣の殺気は歴然とそこにあった。錐の先ででも
瞬きもしないうちに黒い魔獣が少年の目前に現れた。瞬時に鋭い爪が電光のように東の首筋に踊った。数センチの至近距離で東少年が体をかわした。
間髪いれずに牙がひらめく。東少年が身体を反らしてかわし跳躍をして、そのまま空中でとんぼ返りをうつ、忍者か体操の選手のような妙技だった。いや、はるかにそれを超越していた。
しかし獣の動きも少しもそれに退けを取らなかった。少年が走った。アユの家の近くに神社がありその側面に深い雑木林があった。まるで軽業師のように東少年がその中の楡の大木に駆け上がった。
まるで重力が地上から喪失したかのようだった。それを追うように獣が柔軟な筋肉を使って空中を駆け、大木に爪を立てて喰らいついた。敏捷な動きだ。攻撃を仕掛けているのはもっぱら黒豹のほうで東少年は防戦一方に見えた。
黒豹の熊手のような前脚が空中を何度も引き裂いた。矢継ぎ早に繰り出される獣の攻撃を少年はいつまでも避け切れなかった。変化をつけフェイントをかけるような黒豹の動きについに東少年は右の横腹を爪で
両者はそのままもんどりうって地面に落下した。しかし黒豹の牙は抜けなかった。獣はすぐさま起き上がると傷口を広げるように牙を埋めたまま頭を左右に揺さぶる。
凄まじい熊のような力だ。大抵のものなら既にショック死していただろう。血煙が上がり全体重を掛けて黒豹が東少年をねじ伏せようとする。獲物を倒して息の根を止めようとする野獣の本能だ。
しかし東少年も起き上り、倒されるのをこらえていた。それどころか両腕を黒豹の首に回し、黒豹の喉元を締め上げにかかったのだ。信じられないような少年の反撃だった。東少年の腕が黒豹の毛の中に沈み逆襲が始まる。しかし喰らいついた牙は離れない。黒豹は腹で大きく呼吸をし始めていた。
そのままの状況が暫らく続いた。戦いは持久戦にもつれ込んでいた。ぜえぜえとその呼吸に黒豹の苦痛の色がうかがわれる。
しかし東少年の両脚に痙攣が走り、力なく両膝を地面にがっくりと付けた。東少年の体力の限界が近いのだろう。
黒豹は相手が弱るのを待ってその牙を喉に埋め込もうとしている。少年もそれを察して黒豹の喉に回した腕を決して放そうとしない。東少年の肩口からだらだらと流れる鮮血が辺りを真っ赤に染め上げていた。
さすがに東少年の力が尽き果てようとしていた。しかし少年の瞳の青い炎は決して消えてはいなかった。
――その時だった。
「きゃーっ!」
という少女の甲高い悲鳴が辺りの空気を切り裂いた。
「な、なにしてるの! やめてーっ」
まさにありったけの絶叫だった。氷の刃のようなその鋭い声の主は伊藤アユだった。血の気の失せた蒼白な頬に真っ黒な大きな瞳が恐怖に震えていた。
そばまで走ってきてその場に立ち尽くす。一瞬黒豹の眼がアユを見据えて牙の力が抜けた。
「あ、あなたは東君じゃない!? 夢じゃないよね! 一体どうなってるの、東君死んだんじゃないのね! やっぱり生きていたのね!!」
東少年は既に半分意識がない。
「あなた道夫ね。ミッチ。やっぱり生きていたのね。しっかりして! いったいこのお化け黒豹はどこから来たの!? すぐ警察を呼ぶから!!」
アユは勇敢にも道端の石ころを拾って豹に投げつけた。瞬間、東少年が我に返ったような表情をした。
黒豹は素早く牙を肩か口ら引き抜くと望月丈の姿をその場で徐々に取り戻していった。これ以上見開けない程、目を開いてアユがその光景を見入っていた。望月は膝を地に付き肩で大きく息をついて喉元を手で撫でている。
東少年も左肩を右手で押さえ力なく起き上がり、神社の柱に寄りかかった。アユが崩れ落ちそうな少年の腰に手を回して抱きかかえた。
「ほう。お嬢ちゃんはこの少年と親密なんだね。血がついても平気か」
息を整えながら望月が東少年とアユを見据えて搾り出すような声を吐いた。
「あんた誰なの?」
アユが仰天しながら敵意を秘めた眼差しを望月に向けた。
「それにしてもおまえはすげえ奴だ。俺はもう少しで窒息するところだったぜ。俺と互角に張り合った人間…… いや、お前は人間じゃないかもしれないが、とにかくおまえが初めてだ」
「あんただって凄いよ」
苦しそうな東少年の目に信じられないような薄笑いが浮かんでいた。
「可愛い女の子の前じゃ殺し合いはできねえ」
望月が言った。
「どういうことなの! なんでこんな事になったの。あんた豹人間?」
またアユが興奮して高い声を出した。
「色々と事情ってものがある」
「だったらその事情を話してみてよ」
アユが上擦った声で言った。恐怖のあまり身体が小刻みに震えていた。
「アユ。大丈夫だよ。こいつにいきなり襲われたけど、僕は不死身だ」
東少年がアユを見て言った。
「だって血だらけじゃない。救急車呼ぶよ」
アユの顔は蒼白のままだ。
「いいって。大丈夫だから」
東少年は
「どうやらお前を簡単に連れていけそうもないな」
――望月丈が溜め息混じりにそう言った。
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