糸遊~いとゆう~
猫野 肉球
糸遊~いとゆう~
私の見る世界には、いつも色彩豊かな【糸】が溢れていた。
胸の中央辺りから伸びるそれは、良い感情だと明るい、悪い感情だと暗い色をしていて、結び付きの太さは、その糸の太さに現れていた。
その、触れることのできない不思議な糸の話を、祖母の
『おばあちゃんって呼ばれると、老けた気がして嫌なのよね……』
と、私に椿ちゃんと呼ばせた祖母は、11年前亡くなった。
そしてその日から、私はこの糸が、糸が見える自分が、大嫌いだ。
「
「おはよう、お父さん」
祖母が亡くなってから、笑顔が少なくなってしまった私を、父が心配してくれているのは分かっている。
そして、その原因を祖母を亡くしたショックからだと思っていることも。
間違ってはいない、正解でもないけれど。
祖母は、糸が見えるという私の唯一の理解者だった。
糸の話を楽しそうにする私に『それは私との秘密にしない?その方が楽しそうだわ! 』と持ち掛けてきた椿ちゃん。
【2人だけの秘密】に心惹かれた私は、その提案に乗った。
その秘密があったからこそ、今、私は父や近所の人に変な目で見られることもなく、平穏無事に過ごせている。
でも椿ちゃんは、今考えると不思議なことに、私の糸の話を一切否定することはなかった。
それどころか、この糸の色の感情はきっとこうだ、と色と感情を当てはめる作業を一緒にしてくれた。
そのお陰で、私は他の人よりも【空気の読める人】になった。
椿ちゃんは、女手一つで父を育て、作った会社を大きくしたキャリアウーマンなのだが、本人は『ご縁に恵まれただけよ〜』と、のほほんとしている。
椿ちゃんの旦那さん、おじいちゃんの事は詳しく知らない。
父は『椿さんは、俺がお腹にいる時に事故にあって、それから記憶があやふやらしい』と言っていた。
そんな椿ちゃんが亡くなった日、私は彼女の傍で折り鶴を折っていた。
後で聞くと、末期ガンだった椿ちゃんは、最期は自宅で…と言って、日々過ごしていたらしい。
幼い私はそんな事を知らずに、いつものように、お気に入りのアニメの歌を口ずさみながら、次はどの折り紙にしようかと悩んでいた。
「ねぇ、紬」
「なに? 椿ちゃん」
「私は貴女が大好きよ、それだけは忘れないでね」
「え? うん、私も椿ちゃんが大好き! 」
きっと椿ちゃんの遺言だった。
でも、私は笑顔で言ってくれた筈の、その表情を思い出せない。
唐突に、椿ちゃんの痩せた胸元から伸びる、黒よりなお暗い、深い闇のような糸。
その糸は、蛇のように口を開けると、椿ちゃんの胸元から伸びていた、他の糸を噛みちぎってしまった。
本能で察した、これは【死】の糸だと。
「やだやだ! やめて! 椿ちゃんを連れてかないで!!! 」
私は泣き叫びながら、その死の糸に手を伸ばした。
でも、その手は糸に届く前に、誰かの手に掴まれて、私はその人の腕の中に抱きすくめられた。
半狂乱になって暴れる私を、その人は何も言わずに抱きしめ続ける。
「紬を、よろしくね……」
椿ちゃんの満足そうな声を最後に、私の意識は暗転した。
次に目覚めた瞬間、椿ちゃんはもう冷たくなっていた。
そして、棺桶の中にいる彼女を見て、私はまたもや泣き叫ぶ。
「椿ちゃんじゃない! こんなの椿ちゃんじゃない! 」
そこには、真っ黒な糸でぐるぐる巻きにされた、人の形をしたなにか、がいた。
「大丈夫、大丈夫だ、紬……」
私のことを抱きしめながら、優しく声をかけ続ける父に、さっき抱きしめてくれたのもお父さんだったのかな、と思いながら、私はワンワンと泣いた。
その後のことは、よく覚えていない。
私が泣きわめいたことも、祖母の死を受け止められなかったのだろう、ということで片付けられたらしい。
私にとって初めての死は、私の心に大きな影を落とした。
そして胸から出る糸を見る度に、あの光景が蘇ってきて、私は心底この糸も自分も嫌いになった。
自分の事が嫌いでも、月日は過ぎていき、私は16歳になった。
持ち前の空気を読む力で、人間関係の悩みもなく、日々をそれなりに過ごしている私だが、最近気になる人ができた。
野球部所属の、
少し鋭い目を細めて笑う姿とか、『
自分の事が嫌いでも、青春できるじゃん。
そんなことを思いながら、信号待ちをしていた。
青信号まだかな、と足元から目線を上げて、心臓が止まるかと思った。
サラサラと風に揺れる長い黒髪、端正な目鼻立ちの顔、スラッと伸びた手足をした長身の、男性。
でも、目線はすぐに逸らした。
こちらが気付いたことに気付かれたら、きっと逃げられる。
何故かそう感じたからだ。
青信号に変わるまで、時間があまりに長く感じた。
私は、何気ない風を装ってすれ違い様に先程の男性の腕を掴む。
そして、驚いた表情を見せる男性に一言。
「ねぇ、何故貴方には糸がないの? 」
そう、彼には胸元から伸びているはずの糸が、1本も無かった。
「分かった、話すよ。ここでは何だし、どこかファミレスにでも入ろう」
男性は諦めたような表情を見せると、私を誘った。
「さて、何が気になる? 」
「貴方は何者なの? 」
「僕は……そうだね、ナナシ」
「ふざけてるの? 」
「ふざけてないよ。ただ、僕は自分に関する記憶が無い。便宜上使っている名前はあるけどね、でもそれを君に名乗るのは失礼な気がして」
「ふ〜ん。私は紬。
「え! そんなアッサリ本名名乗っていいのかい? ダメでしょ、こんな見ず知らずの男に名乗っちゃ」
「何故、今名乗ったのが本名だと知ってるの? 」
「あ、えぇーと、まぁそれはいいでしょう」
メニュー表で顔を隠すナナシ。
「まぁ、いい。聞きたいこと聞くだけだから」
「聞きたいことって? 」
「何故、貴方には糸がないのか、それだけ」
「そうだね……。紬は、黒い糸を見たことはある? 」
「ある。蛇みたいなやつ」
「そうそう、それ。僕は、奥さんから出たその黒い糸を引きちぎってしまった」
「え! アレって触れるの? 」
「触れたね。触れて、交通事故に合った奥さんを救うことは出来たけど、代わりに僕の胸の糸は噛みちぎられてしまった。それからは、もう糸が繋がることはなくなった」
「ナナシは、自分の糸も見えるの? 」
「見えてたね、今はご覧の通り何もないけど」
両手を上げて、胸が見えやすいようにするナナシ。
「私は、見えたことない」
「そこは個人差があるんじゃない? だって、僕にはしっかり見えるからね」
「え! 嘘! 教えて! 」
「タダでは教えられないなぁー」
「分かった、ここの代金は払う」
「いいでしょう」
それから、連絡先を交換してナナシと数回会った。
同じ力を持つ人と話すことは、楽だった。
まさか、それをクラスメイトに見られているとは思いもせず。
「ねぇ、佐藤さん。見知らぬ年上の男性とお茶してるって、ホント? 」
「……え? 」
その時、嘘でも何でもすぐに否定すれば良かったのだ。
でも私は、図星を指されて動揺して、言葉が出なかった。
それから、噂は瞬く間に広まって、いつの間にか私は、見知らぬ男と援助交際をしている、とんだ尻軽女になっていた。
初めて、学校をサボった。
家は母が私を産んですぐに亡くなった、父子家庭だから、きっと学校をサボったことがバレるのは、もう少し時間がかかる筈。
「あー、つらい」
声に出すと、本当に辛くなってきた。
今まで、それなりに上手くやってきたつもりだった。
そう、それなりに。
誰とも深い関係を築くことなく。
それが仇になった。
私を身を呈してまで庇ってくれる友人が、1人もいないことに、気がついてしまった。
「バカだなぁ……」
本当に馬鹿。
今孤立しているのも自業自得。
でも、言い訳をするなら、怖かったのだ。
親しくなった人が、死の糸に絡め取られるのを再び見て、正気でいられる自信がなかった。
「今は学校じゃないの? 紬」
「うるさい、ナナシのせいでこっちは大変なんだ」
「それは、うん、ごめん」
「嘘、八つ当たりした、こっちもごめん」
いつの間にか隣に来ていたナナシ。
2人で揃って前を見る。
ここは、とあるビルの屋上。
今は使われてないこのビルは、とある方法で屋上まで上がることができる。
「ね、紬。君と話す時間は楽しかった」
「私もだよ」
「ありがとう。……楽しくて、つい距離を間違えてしまった。辛い思いをさせたね」
「これは私が解決しなきゃいけないことだから、ナナシが謝ることじゃない」
「強情だねぇ、紬は」
「うるさい」
「さて、紬。ここでお別れだ」
「え、ちょっと待って……」
隣を見ると、既にナナシはいない。
慌てて後ろを振り向くと、結構な距離が空いていた。
手を振るナナシ、このままでは間に合わない、私はまた伝えたい言葉を伝えられない。
私は一世一代の賭けに出た。
「待ってナナシ………
驚いた表情で口をパクパクとさせるナナシ。
良かった、私はどうやら賭けに勝ったらしい。
「い、いつから…? 」
「うーん、一番最初、顔を見た時にアレ?とは思ったの。前に椿ちゃんに見せてもらった、おじいちゃんの顔に似てたから」
「……え? 椿は記憶喪失だったんじゃ? 」
「椿ちゃん言ってた。『夫を亡くしてから、彼の存在を消すみたいに、写真や思い出がどんどん無くなっていったから、記憶だけは奪われないようにって、記憶喪失のフリをしたの』って。縁おじいちゃんのこと、ちゃんと最後まで覚えてたよ。写真は全部無くなったからって、椿ちゃんが描いた縁おじいちゃんの絵、見せてもらったし」
「そうか、そうか……椿………」
静かに涙を零すナナシ……縁おじいちゃん。
「ねぇ、縁おじいちゃん」
「ちょっと待った。そのおじいちゃん呼びは止めない?一気に老け込む気がする……」
「椿ちゃんと同じこと、言うんだね……」
私も涙を流す。
「夫婦だからね」
「そっか。……椿ちゃんの最期の日、私が黒い糸を触るの邪魔したのって、縁? 」
「そうだよ、可愛い孫娘を僕と同じ目に遭わせる訳にはいかなかったからね。……それにしても、僕のことは呼び捨てなの? 椿はちゃん付けなのに? 」
「最初にナナシって呼び捨てを容認した縁の負け! こういうのは最初が肝心! 」
「一理あるね……」
「椿ちゃんに、糸の事って話してた? 」
「話してたよ、彼女との間に秘密を作りたくなかったからね」
「ありがとう」
「ん? 」
「縁が椿ちゃんに話してくれてたから、私は理解者を得れた」
「うん、それは良かった」
「縁は、死ねないの? 」
「多分、ね。椿の死を歪めてから、僕の身体は何も変わらないから」
「そう……。自分の記憶がないってのは嘘? 」
「うん、嘘。詳しく言ってしまったら祖父だとバレると思ったから。まぁ、言わなくてもバレちゃったけど」
「私の鋭さに負けたわね」
「紬」
「なに? 」
「君は、【今】を生きなさい」
「え? 」
「ご覧、君のことを心配して、こっちに走ってくる子がいる。真田くん、だったかな?紬が気になってる」
「え! 嘘、本当だ! 」
まだ小さいけれど、必死に走ってきているその姿は、確かに真田くんのものだった。
「彼は、いい子だね。さすが紬の選んだ子だ」
「………。」
「紬、君も分かってるだろう? 」
「年に、1回。お盆の時には帰って来て、椿ちゃんのお墓参り一緒に行って。それが、条件」
「分かった。約束するよ」
そして私たちは、小指を絡めて指切りをした、それが、さよならの代わりだった。
縁が去った後、私の噂は恐ろしいくらいに綺麗さっぱり無くなっていて、ひょっとして、椿ちゃんが言っていた『ご縁に恵まれた』というのは、縁の仕業というのを暗に示していたのかも知れないと思った、そして、それは間違っていないだろうとも。
真田くんと私は、付き合い始めた。
屋上に私の姿を見かけた彼は、私が自殺するのではないかと、焦って駆け付けてくれたらしい。
『噂に惑わされて、疑って、ごめん』
潔く謝る彼を、私は許した。
それから、何となく親しくなって、彼に告白されて、受け入れて。
くっ付いたり離れたりしながら、私たちは絆を深め合って、私は佐藤から真田になった。
その1年後、父が黒い糸に呑み込まれて、またもショックで泣く私を、涼は辛抱強く慰めてくれた。
そして、糸が見えることを打ち明けた、子どもに遺伝してしまう可能性があると言うことも。
それでも涼は、子どもが欲しいと言ってくれた。
もし子どもに遺伝しても、それは紬のせいでは無いとも。
男の子と女の子、2人の子宝に恵まれて、孫まで産まれた。
幸いなことに、どの子たちにも力は発現しなかった。
そして3年前、『君と結婚出来て幸せだった』と言葉を置いて、最愛の人は黒い糸に呑まれてしまった。
そして今。
私自身が、もうすぐ黒い糸に呑まれる、そんな予感がしてる。
「紬、すっかりおばあちゃんになったね」
「縁、相変わらずデリカシーってモノがないわね、貴方」
「それはごめん」
目を開けると、美しい姿のまま変わらない、縁の姿があった。
「私、孫までいるのよ。縁にとっては
「そうだね。そういえば紬は、おばあちゃんと呼ばせているんだね? 」
「だって、どう足掻いたって私はおばあちゃんなんですもの」
「そう、か……」
「椿ちゃんが、いつまでも若々しくいたかったのは、縁、多分貴方の為よ」
「僕? 」
「そう、いつまでも若い貴方の隣に立つには、若くなくちゃいけないって思ってたんじゃないかって、今はそう思うわ」
「僕のせいってこと? 」
「せいかどうかは知らないわよ。本人に聞かなくちゃ。私は一緒に歳を重ねてくれる人が伴侶だったから、椿ちゃんの気持ちは分からない」
「そう、だね……」
「めんどくさいから、直接お聞きなさいな」
「え? 」
「はいコレ。これ自分の腕と私の腕に巻いて」
縁に黒い毛糸を渡す。
「え、何これ」
「私、多分もうすぐ死ぬのよ。で、これで結んどけば一緒に巻き込まれて縁も死なないかな?って思って」
「笑顔で言うことじゃないよ、色々と……」
「でも縁、椿ちゃんのところいい加減行きたいでしょ? 」
「それは、まぁ……」
「なら、この毛糸に賭けてみてもいいと思わない? 私、賭け強いと思うのよ」
「その根拠は? 」
「縁をおじいちゃんだと言ったの、アレ賭けだったの」
「そう、それは確かに強いかもね」
「でしょう? 」
私たちは笑いながら泣き合った。
「母さん、入るぞ? 」
私が部屋に入った時には、母、
陽の光に照らされて、穏やかに微笑んでいるようにも見える母の手には、何故か黒い糸が握りしめられていた。
手から外そうとも思ったが、不思議なところのあった母のこと、何か意味があるのかもしれないと、あえてそのままにしておくようにした。
母の葬儀は、春のよく晴れた日に行われた。
遠くにユラユラと揺れる
『あれ、ユラユラ揺れてる見えるの、陽炎って言うんだけど、見えない糸がフワフワ踊ってるようにも見えるでしょう?だから、陽炎のこと
「
そう呟いた瞬間、遊ぶ糸の向こうで両親と見知らぬ、けれど懐かしいような人々が幸せそうに笑う姿が見えた気がした。
糸遊~いとゆう~ 猫野 肉球 @nekononikukyu-punipuni
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