第5話 再び、エリック

 エリックは、今日も空を眺めている。今朝方、中央アジアの街に“裁き”が下されたという報告が入った。


 皇太子カールが、父を殺害して皇帝・カール4世として即位してから半年、ユグドラシルの支配は、一見したところ以前と大きく変わってはいない。それどころか、ある意味ではマシになっている。新皇帝は、“裁き”を下す前に、その街にいる年頃の娘を献上させた。その中に、皇帝の気に入った娘がいれば“裁き”は免除されるのである。道義的な問題はともかく、“裁き”を免れる方法が示されたのだから以前よりマシと言えばマシであろう。ちなみに、帝国の法体系のなかに、皇帝のこのような振る舞いを禁止する根拠は無い。

 ヴェロニカとの一件で、カールが変わってしまったことは間違いない。カールが父を殺した後、ヴェロニカは再びカールのものになったが、もはやヴェロニカは以前のヴェロニカではなかった。カールの愛撫を喜んでもくれなかったし、カールに優しく笑いかけてもくれなかった。そのうちに、ヴェロニカは死んだ。自殺とも言われるし、カールが殺したとも言われる。

 父に愛人を奪われ、父を殺しても愛人の心を取り返すことのできなかったという痛みを(そもそもヴェロニカの心が実際にカールのものであったことが一度でもあったのかどうか、その点については歴史学的には何も確かなことを言えない以上、読者諸賢の想像にお任せするより他にない)、新皇帝は他者から何かを奪うという形で癒そうとした。ある意味、カールは初めて自分が手にしている権力の利用価値に気づいたと言えるかもしれない。


 “裁き”の免除と引き換えにその街の娘を献上させるという方針を、“下界”の連中は慈悲のようなものと受け取るだろうと、新皇帝は考えた。実際のところ何の理由もなく行われている殺戮ジェノサイドを“恩寵”と呼んでいたのが“下界”の人間達なのだ。ある意味以前より寛大なこの措置に、反発などあろうはずがないと新皇帝が考えたのも無理はない。

 ところが、カールのこの予想に反して、新皇帝の方針が知れ渡るようになってから、帝国内の不満分子の動きが強まってきた。以前ならたとえばエリックのような男の言葉に耳も貸さなかったような者たちでも、次第に反帝国の動きに同調・加担するようになってきている。カールは“下界”の人間どもの身勝手さに呆れ、怒り、それならばと以前のように無差別に“裁き”を下したりしたのだが、そうすると今度は、以前と同じような“裁き”に対してこれまでにない反発が生じたりした。以前まで全く理由のない“裁き”を甘受して、“裁き”の理由を好き勝手に想像してはユグドラシルを崇拝していたような“下界”の住人が、なぜこうも変わってしまったのか、新皇帝にはまるでわからない。


 エリックとリノが率いるレジスタンスは、現在3,000人を超えている。他のグループとの連携も進みつつある。

 「自分でも不思議なんだけど、僕は前ほどユグドラシルが恐ろしくないんだ。やってることはあまり変わらないし、より身勝手になったとも言えるけど、それでも、前に感じていた不気味さを、今のユグドラシルからは全く感じない」

 リノが言うことに、エリックも全く同感だった。新皇帝が何を望んでいるのか、今となってはあまりにも明瞭なのだ。

 「…カールという男の、顔が見えるようになったな」

 リノが頷く。今の皇帝には、顔がある。表情がある。感情がある。若き専制君主は、感情を抑制する術を知らず暴れ回っているに過ぎない。感情を抑制する術を知らず暴発させてしまう人間は赤ん坊と同じだ。誰がそんな男を恐れるだろう。

 エリックは、“裁き”を軸としたユグドラシルの支配を成立させていた虚妄のからくりを朧気に理解しつつあった。ユグドラシルの権威は虚妄である。何の実体もない。実体のない虚妄である、人々はそれを無意味に恐れている。エリックはそう考えていた。けれども、実際には、虚妄は虚妄畏れられていたのではなかったか。虚妄は、実体を得た途端に無力になるのではないか。そのからくりに気づいた誰かが、空虚そのものだった皇太子の心に、実体のある感情を流し込むことに成功したのではないか。それが、エリックの推測だった。


 エリックを指導者とするレジスタンス連合が、ユグドラシルを陥落させるのは、カール4世皇帝の治世にして7年目のことである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空中要塞・ユグドラシル 垣内玲 @r_kakiuchi_0921

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る