エピローグ
「懐かしい……何も変わっていないんだな、ここは……」
その崖の上は、雪に覆われた山の上にあって、何故か唯一、土を覗かせている場所だった。
クロノアの聖地。
いつからか、そう呼ばれるようになっていた場所。
かつて春の巫女の聖殿と呼ばれていた塔があった場所。
「リーフ……迎えに来たぞ。一千年……長い、長い時を待って……」
辺りを見回すまでもなかった。
かつて自分が投げ落とされた場所。
塔を背にし、エメラルド・グリーンの海を見下ろす崖の縁に、その石像はあった。
「リーフ……」
セイジュは呟いて、ポケットの中の石を握りしめた。
一千年前、リーフに託され、クロノアに任された石。
女神クロノアと、春の巫女の力が宿る神秘の碧玉。
セイジュはゆっくりとリーフの前に跪いた。
悲しげに目を閉じ、祈りを捧げるように跪いたままの格好で石と化している愛しい人。
碧玉を握りしめ、セイジュは呟く。
「春の女神の名の下に、我、汝、春の巫女たるリーフの戒め解き放たん――。春の息吹の優しき力よ。命萌ゆる緑の光よ。クロノア神の名に於いて我セイジュが願う。今こそ長き時を越え、汝が力宿せし巫女に、真なる自由と永遠なる誓いを与えたまえ……」
詔を呟き終えると、握りしめていた碧玉から緑色の光がほとばしった。
激しく、まるで生き物のようにくねる光が、リーフの体をリボンのように包み込んでいく。
「リーフ……目覚めてくれ、リーフ。今度こそ……今度こそ誓いを結ぼう。あの時の誓いを……!!」
一心に見つめる中、リーフの体はゆっくりと光を吸収し始めた。
激しかった碧玉の輝きが、やがて柔らかに輝くだけになり、そしてリーフを包んでいたリボンのような輝きもまた、少しずつその光を失い始める。
「リーフ……?」
しかし、妙だった。
光がおさまるのに比例して、石化は解ける筈だった。
しかしリーフの体は依然として冷たく、硬い石のままだ。
「リーフ……?おい、リーフ……冗談は……冗談はよしてくれ……!!」
いやな予感が胸にもたげた。
一千年。あまりに長い時だった。
再び逢えると知っていたセイジュでさえ、何度も気がおかしくなりそうな思いを味わった。
リーフは……リーフはそれを知らないのだ。
何も知らないまま、ただ一千年の長い間、彼女もまた眠り続け、時間をさまようだけだったとしたら……?
「リーフ……リーフ!!」
セイジュの声がこだました。
「目を覚ませ!オレだ、セイジュだ。迎えに来たんだ。クロノア様が助けて下さったんだ、リーフ!目を……目を開けてくれ!リーフ!!」
――しかし。
リーフは、決して、目を覚まそうとはしなかった……。
「うそだろう……リーフ……やっと、やっと巡り会えたっていうのに……」
セイジュの呆然とした呟きが、風に乗って周囲を舞った。
やっと逢えた。長い、長い時を待って、やっと巡り会えた。迎えに来れた。
なのに……なのに!!
「頼むよ……目を開けてくれリーフ……リーフ……っ!!」
たまらず、セイジュはリーフの両肩をつかみ、激しく揺さぶった。
その拍子に持っていた碧玉が肩にぶつかり、音を立てて転がる。
「ん……?」
と、その時。
セイジュは、碧玉に光が僅かに残っているのを見つけた。
それはともすれば見逃してしまいそうなほど微かな光。
ほんの僅か……そう、呼吸一息分ほどもない小さな光。
「……」
セイジュは、石と化したままのリーフと、その碧玉を交互に見る。
そして、何気なく石を手に取った。
「リーフ……この、光が足りないせい、か……?」
それは何の根拠があるわけではない、しかし確信。
セイジュは他に思いつく手段もないまま、その碧玉を唇に押し当てた。
途端に、流れ込む力。
暖かく、しかし激しい女神の力。
「ぐっ……ぅ……っ……」
体の中を駆けめぐる激しい力に、セイジュの額にはあっという間に玉のような汗が噴き出した。
しかしセイジュはそれを堪え、ゆっくりとリーフの唇に顔を近づけていく。
「春の……女神の祝福、を……汝が愛しき、巫女に……今一度……授け、たま…え……!!」
そして。
口づける。ゆっくりと。――今までの長い時間を取り戻すかのように。
「リーフに春の女神の祝福を……」
そう、呟いた瞬間だった。
ツーッ……。
リーフの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは頬を伝って大地に落ち、弾けたその場所から放射状に、白い花がどんどん咲き始める。
「女神の花……クーロニアス……」
「う…」
口から、かすかな声がこぼれ出た。
「!!リーフ!」
はっと、彼女の顔に目を戻す。
その体は、既に赤みを増し、人の肌の色を取り戻していた。
少しずつ……少しずつ。
指先が動き、胸が微かに上下し始める。
「リーフ……目を覚ませ。リーフ……!」
セイジュが静かに呼びかける中。
リーフは、ゆっくりと目を覚ましていった……。
まず見えた物は。
青い空。
まず聞こえた音は。
エメラルド・グリーンの波音。
まず感じた物は。
とても懐かしい――ぬくもり。
「あ…私……は……?」
ゆっくりと、意識が覚醒し始める。
それに伴って、最後の記憶も蘇り始めていた。
「私……どうして……?」
巫女の力の解放。
それは、巫女自身の命の放棄。
だったはず。その筈なのに……。
その時、リーフは自分の名を優しく呼ぶ、誰かの穏やかな声を聞いた。
穏やかで。でも声の調子から感じられるのは泣いているようで。
泣かないで。私のために泣かないで。
「セイジュ……」
「リーフ」
「!!!」
聞いた瞬間。
天国へ来たのかと思った。
それは決して聴けるはずのない人の声。
聞きたくて、会いたくて、焦がれていた人の声。
焦点がゆっくりとあっていく。
青一色だった瞳に、ゆっくりと誰かの影が映り始めた。
愛しい人の影。
会いたくて、触れたくて、その為になら何を犠牲にしても良いと思った人の。
「セイジュ……」
「リーフ。オレが、わかるか?」
その瞬間。
リーフの意識は、完全に覚醒した。
「セイジュ……?」
目の前にいる人が、信じられない。
それはもう二度と逢えるはずがないと思っていた人の顔。
穏やかに笑う、誰より愛しい人の顔。
「……セイジュ!!」
重くてまるで他人のように重くてうまく動かせない腕を必死に差し伸べた。
その手を取り、セイジュは手のひらに口づける。
「待たせたな……リーフ。迎えに、来たよ――」
「セイジュ……セイジュ!」
リーフは、今度は涙でかすむ瞳で微笑みながら、セイジュの腕の中に飛び込んでいく。
「逢いたかった。逢いたかったセイジュ……!!」
小刻みに震えるリーフの体を力一杯抱きしめ、こちらも涙目でセイジュが言った。
「ごめんな。長いこと……一人ぼっちで待たせてしまった……ごめん。ごめんな……」
「夢じゃないのよね。これは夢じゃないのよね?私たち、天国にいるの?どうしてあなたがここにいるの?だって私、確かにあなたが……それより、どうして私は生きているの?私は巫女の力を解放したのよ。なのに……なのに……力が……力が、また、宿っている……?」
呆然と、自身に起きた出来事に呟くリーフ。
セイジュは、あれから起きたすべてをリーフに話して聞かせた。
「クロノア様が……私たちを……そう、だったの……」
リーフは納得したように頷く。
そして、彼女は再び、セイジュの胸に強くしがみついた。
「リーフ?」
「逢いたかった……セイジュ……」
「ああ……オレもだ。逢いたかった、リーフ……長かったよ。一千年の時は……」
そう言って、セイジュはリーフの顎をつかみ、上げさせる。
「セイジュ?」
「誓いを結ぼう。一千年の昔、誓ったとおりに」
微笑むセイジュに、リーフも頬を染め、頷く。
「エメラルド・グリーンの海を見下ろすこの崖で……」
「永遠の幸せを得られるように……」
二人は、ゆっくりと口づける。
そして、呟いた。
「「すべてはクロノア様の御心のままに……」」
エヴァーグリーンが消滅して一千年。
二人の物語は、今、はじまったばかりである――。
碧風夢想 樹 星亜 @Rildear
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