第3話
「あれから一千年か……」
セイジュは再び立ち止まり、流れる汗を拭うと呟いた。
「随分と長いこと待たせてしまったな。リーフ……」
一歩、また一歩と踏みしめるたびに心臓の鼓動が早くなっていく。
早く会いたい。走り出したい衝動は痛いほど。
けれど決して走らないようにと。リーフが待った時間を、ゆっくり歩くことで噛みしめろと。
それが、ついこの間目覚めたセイジュと、目覚めさせたクロノアとの間で交わされた約束。
「オレにあの時もっと力があれば……お前に伝える力があれば、一人待たせたりなどしなかったのに……」
悔恨が、激しく彼の体を震わせた。
「一千年。オレも長いこと待ったよ、リーフ。海に投げ捨てられた、あの瞬間クロノア様がオレを助けてくださったんだ。お前には聞こえなかっただろう?巫女の力を解放しようとしていたお前には……クロノア様の声が……」
あの日。
セイジュが海から投げ捨てられた瞬間、崖の下から突風が吹き上げた。
その風は上から見ている民たちにはわからなかったが、セイジュの体を球体のように包み込み、海中へと沈んでいった。
そして、波によってえぐられた崖下の海中洞窟へと運ばれたセイジュの目の前に、クロノアが姿を見せたのだった。
《セイジュ……我が祝福を授けし巫女が愛せし者よ……よく聞きなさい……》
緑色の衣。緑色の髪。薄桃色の瞳を悲しげに微笑ませ、クロノアは言った。
《我が力を宿せし巫女の詔により、我が力はこの地より消滅します……》
薄れ行く意識の中で、セイジュはクロノアのそんな言葉を聞いた。
《この地を治めるは本来、我が夫である冬の神。我が力が消滅すれば、この地は極寒の地へと変貌するでしょう。それが、命と引き替えに我が力をこの地より滅する巫女が願いゆえ……》
リーフが……力を放棄した……?
馬鹿な……そんなことをすれば……お前は……。
オレが……オレがもっと強ければ……もっと力があれば……!!!
つ――っと。
目を閉じ、力無く横たわるセイジュの瞳から涙がこぼれ落ちた。
《セイジュよ……我が祝福を授けし巫女が愛せし者よ……》
クロノアの厳しい声が、セイジュに訊ねる。
《リーフと共に生きることを望みますか?それが例え長きに渡る苦しみの始まりとしても……》
『もちろんです』
セイジュはクロノアの言葉が終わる前に応えていた。
『例えそれが地獄の入り口だとしても、彼女と離れることに比べたら、それ以上の苦しみがあるはずもないのだから……。オレは、彼女と共に生きることを望みます。そのことで、誰を犠牲にすることになっても』
《ならば我はあなたを生かしましょう。巫女が真に望んだのはあなたの生存。けれど、その為には生存をあなたもまた望み、我が力を受け入れねばなりません。セイジュ。あなたは生存を望みますか?》
『オレは……』
セイジュはそこで言葉を切った。
生きたいと思う。リーフと共に、生きたいと。
しかし、クロノアがここにいるのは巫女の力が解放された為。
巫女の力が解放されれば、リーフの命は尽きる。護衛官になるとき、そう教えられた。
セイジュはゆっくりとクロノアの言葉を退ける。
『オレは……リーフの命を犠牲にして助かりたいとは思いません。オレの望みを聞いてくれるなら、どうかリーフを……春の巫女の命を。そして、彼女に自由を。貴女の巫女ではなく……ただ一人の人間として生きる道を、どうか彼女に』
《巫女の願いを聞き入れないと?》
『彼女は……オレを恨むかも知れませんが』
セイジュは、薄れ行く意識の中で苦笑した。
『だが、生きていればオレよりもずっと頼りになる、いい男が現れる筈だから。リーフには悪いが……オレは、彼女の命で助かるつもりはありません。助かったとしても、彼女がその世界にいないのなら、死んだも同じことです』
おぼろげに、クロノアの姿が見える。
ふんわりと。クロノアが微笑んだ。
《あなたの願い……しかと聞き届けました》
クロノアは嬉しそうにセイジュのそばに跪き、その手を額にかざす。
《我が巫女の愛に値する、高潔な魂を持つ人間よ。あなたの思いに免じ、巫女の力の解放は無効としましょう》
『クロノア様……?』
《あなたは真に巫女の幸せを望んでいる。我が愛しい巫女の一人の人間としての幸せを。本当に久しぶりだこと……あなたのような人間に巡り会うのは》
そう言って手をかざすクロノアの体から柔らかなオーラが立ち上り、煙のように膜のようにセイジュの体を包んでいく。
血があふれ出していた傷は、みるみるうちに癒えていった。
「これ……は……」
痛みが消え、意識が急速にハッキリしていく。
まるで何事もなかったかのように傷が完全に消えてしまうと、セイジュは驚きながら起きあがった。
目の前には、美しく柔らかな髪をなびかせた女性の姿があった。
「クロノア様……」
慌てて臣下の礼を取るセイジュに、クロノアは微笑む。
《ありがとう、リーフの幸せを望んでくれて……。はるか昔、あなたと同じように巫女を守ろうとした男がいました。あの時、私は彼らを救うことが出来なかった。愛しい巫女の幸せを望んでくれた、数少ない人間だったのに……》
その目から涙が一粒こぼれ落ちる。
その涙が大地で弾けると、そこには美しい白い花が咲いた。
「クーロニアス。女神クロノアの花……」
《あなたからは、あの時の男と同じ魂の波動を感じます。あなたは覚えていないでしょうが……そう、運命なのでしょう。あなた達はまた、こうして巡り会った。同じ巫女と、護衛官として》
クロノアは、足下に咲いたクーロニアスの花を手折り、その花で空中に魔法陣を書き始めた。
《巫女の詔によりて、我が力をこの地より一千年の間消滅させます。その間は、我が夫たる冬の神の力がこの地を支配し、エヴァーグリーンは死の静寂に包まれるでしょう……》
「一千年……永遠に、ではないのですか?」
《一千年後。この地に再び我が力を戻しましょう。春の力により、エヴァーグリーンは目覚めます。リーフには悪いですが、永遠の死を与えるつもりはありません》
「リーフ……!そうだ、力を解放したら彼女は……!!」
巫女の力の解放。それは、巫女の存在意義の消滅、引いては巫女の死を意味する。
するとクロノアは更に微笑む。
《これは、巫女の力の解放ではありません。あくまで巫女の願いを聞き入れた我が意志の具現。……巫女は、一千年の間眠りにつかせましょう。そう……あなたと、同じように》
「オレが……一千年の間眠りに……?」
《今、巫女は石像となりました。その中に巫女の力はありません。私が一時預かりました。……それを、あなたに授けましょう。さあ、手を》
そう言って、クロノアは薄緑色に輝く光を差し出す。
《リーフから渡された碧玉を持っていますね?その石に、この光を封じます。一千年の間、あなたもまたここで眠りにつきなさい。老いも、衰えもしないまま、長い長い時を……。耐えられますね?》
「それでリーフと共に生きることが出来るなら。何だって耐えます。一千年でも、一万年でも」
力強く頷くセイジュに、クロノアは満足そうに頷いた。
《一千年後。我はあなたを目覚めさせましょう。目覚めたら、崖の上へ向かいなさい。そこに巫女の石像があります。一千年の間、あなたを待っていた巫女の石像が。……その石が、巫女を目覚めさせてくれるでしょう》
「この石が……リーフを……」
《セイジュ……我が愛しき巫女が愛せし者よ。一千年は決して短くはありません。眠ってはいても気が狂うほどの時間があなたを苦しめるでしょう。……けれど耐え抜きなさい。それが、我が巫女を望みし者への試練。いいですね。耐え抜くのです。そして今度こそ、巫女を……あの娘を助けてあげて……》
そう言うと、クロノアの体はふわり、と宙に浮いた。
少しずつ、少しずつ、その輪郭がぼやけていく。
《頼みましたよセイジュ……我が巫女の愛せし者よ……巫女を……リーフをどうか幸せに……》
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