第2話
「きゃああぁっ!!」
「リーフっ!やめろ!彼女に触るな!!」
「やめて!放して!セイジュ!……セイジュ!!」
一千年前。
その日、セイジュとリーフは示し合わせ、都から逃げ出すはずだった。
しかし、二人の想いを知っている住人達の監視は、そう簡単に誤魔化せるものではなく。
二人は、待ち伏せていた住人達にいとも簡単に捕まってしまう。
「放せ!……っ……放せっ!!」
屈強な男達に羽交い締めにされ、セイジュは叫ぶ。
その視線の先にいるのは、同じように男に抱きかかえられたリーフの姿。
「リーフに触れるな!……やめろ!」
「セイジュ!!」
互いに暴れもがき、けれど一人の力ではどうにもならない。
それでも、絶望に屈し、諦めてしまうには想いが激しすぎて。
「護衛官でありながら……お前はなんということを……」
元は同僚の一人であった男が、セイジュを羽交い締めにしたまま呟く。
しかし、その声に同情の響きはない。ただ、厄介者に対する嫌悪感と侮蔑があるのみだ。
そう、彼らにとってセイジュは単なる厄介者。己の幸せを――都の幸せを奪う忌むべき者。
「黙れ!貴様らに何がわかる!リーフを犠牲にして、見せかけの幸せに甘んじている奴らに、何がわかる!!」
たった一人、長い間――生まれ落ちたその瞬間から一人っきりで。
誰にも会わず。誰にも心を許せず。己が身の幸せなど望むことすら許されなかった。
それなのに、彼らは何も感じない。
一人の少女の幸せを握りつぶし、見ない振りをして、自分の幸せだけを守ろうとして。
吐き気がした。
自分が過ごしてきた時間の裏で、涙を流す感情さえ奪われた少女がいたことに、心の底から嫌悪を覚えた。
少女にではない。何も知らず、のうのうと生きてきた自分自身にだ。
けれど、少女は。リーフは笑ってくれた。
許してくれたのだ。高い塀越しにでしか言葉を交わすことが出来ない、無力な自分を。
守りたいと思った。救いたいと思った。その為になら、都の平穏など、どうなっても構わないと思った。
それなのに。
「渡さない……リーフは、お前らなんかには渡さない!自由を……彼女に人間としての幸せを与え……がっ……!!」
「セイジュ!!」
リーフは、護衛官の一人に思い切り腹を殴られ、身を二つ折りにしたセイジュに悲鳴を上げる。
「やめて!セイジュに酷いことしないで!」
己の身を嘆いたことはない。
それが不幸だと思うことすら、彼女には許されていなかったから。
幸せだと感じるから、不幸に気づける。
けれど、リーフは幸せだと感じたことは一度もなかった。それがどういう感情なのかも知らなかった。
生まれてすぐ母から引き離され、物心付いたときには周りは冷たい壁。
誰にも会えなかった。壁越しに、ドア越しにでしか会話もできなかった。
春の巫女。それは、牢獄の中の囚人と同じ生活。
だから、何を見ても、何も感じなかった。
ただ一つ、高い窓から見える青い空と、そこを飛ぶ小さな鳩だけが心の慰め。
空を眺めているときだけは、あたたかい気持ちになれた。
それだけが、幸せとはこんな感じなのかと思える時間。
その顔に笑みが浮かぶことはなかった。
笑い方さえ、知らなかった。
……それを、セイジュが教えてくれるまでは。
「巫女様。お戯れも大概になさいませ。貴女様はエヴァーグリーンを守る生神様なれば、このような下賤の者などと御言葉を交わされるなど以ての外にてございます。代々、春の巫女は独り身が常。クロノア様のご加護を失うような行動はお慎み下さらねば」
エヴァーグリーンの長老が、諭すような口調でリーフに言う。
「御身のお世話は侍女達がおりますれば、その者達に御言葉をおかけくださりませ。護衛官は巫女様の御身をお守りするが為の存在。巫女様をお慰めいたすは、その任にござりません」
「だ……まれ……っ!」
セイジュが、苦しい息の下で言葉を継ぐ。
「リーフの苦しみを、悲しみを本当に思ったことなどないくせに、綺麗事を並べ立てるだけしか出来ないのか!お前らの安泰のために、なぜリーフが犠牲にならなくてはならないんだ!お前らは、そんなに偉いのかよ!……たった一人の少女の幸せさえ守れもしないお前らが!!」
「黙れ!!」
再び、護衛官がセイジュを殴りつける。
「がふっ!!……げほげほっ」
体をくの時に曲げ、激しくせき込むセイジュの口から、真っ赤な血しぶきがほとばしった。
「セイジュ!!」
こんな感情さえ、昔は知らなかった。
悲しみも。喜びも。
全部あの人が教えてくれた。
《ごめんな……》
あの日の言葉が蘇る。
《ゴメンな……オレ、何もしてやれない。オレたちの生活が、君の……春の巫女のこんな犠牲の上に成り立っていることすら知らなかった。ごめん。ごめんな……》
辛そうに。言葉から受ける感じが、泣いているようで。
優しい気持ちが沸き上がった。
泣かないで。私のために泣かないで。
そう、思った。
「幸せになりたいなんて、思ったことはない……。ただ、私が望んだのはただ一つ。あの人と共に暮らしたい。ただそれだけなのに……」
笑顔をくれた人。
幸せを教えてくれた人。
例え触れることが出来なくても、塀越しに言葉を交わすことしかできなくても、それでも良かったのに。
自分には許されない罪。……幸せを願うことすら許されない、巫女。
「やれやれ……巫女様には、どうやらお戯れが過ぎますようにて……おい」
「はい」
「!!やめろ!リーフに何をする!」
リーフを抱きかかえていた男が、彼女の顎をぐいとつかまえ、その顔を真っ直ぐセイジュの方へと向けさせる。
「何もしやせん。巫女様に何を出来ると言うんだね?……用があるのは、お前の方だよセイジュ」
そう言って、長老はゆっくりとセイジュに近寄った。
そして。
ドスッ!
「……っあ……!?」
セイジュは、激しい痛みの中で呆然とそれを見つめていた。
ぼたぼたと、あっという間に血溜まりが出来ていく。
脚に突き立っているのは……白刃のナイフ。
「きゃああぁぁぁあ!!!」
リーフが絶叫した。
「セイジュ!……セイジュ!いやぁぁぁ!!」
「う……がっ……ぁ……!!」
「もう二度と、巫女様を奪おうなどという馬鹿な考えをもたれては困るのでな。自業自得じゃ」
ドスッ。
再びナイフが煌めく。
「がぁぁっ!!」
ドスッ、ドスッ、ドスッ。
その行為は何度繰り返されただろう。
セイジュの太股に何度もナイフを突き刺し、長老は言った。
「本来ならば足の腱を切るところだが、お前の護衛官としての腕は惜しいのでな。これでもう、走ることは出来まいて」
冷酷な笑み。
彼らにとって唯一絶対は、春の巫女による加護。都の安定。
その為になら、どんなに残酷な行為でさえ行えてしまうのだ。それを正義と信じることで。
「セイジュ!……セイジュ!!」
「これでおわかりいただけましたでしょう、巫女様。貴女様のお戯れが過ぎますれば、この者と同じ運命を辿る者がまた現れましょう。……よろしいですか巫女様。貴女様は生神様なれば、クロノア様のご加護を失うような行動はお慎み下さりませ。エヴァーグリーンの安定は、貴女様がいてこそのものなのです」
……吐き気がした。
これが、あの人と同じ人間のすることだろうか?
きっと、夢を見ているのだ。きっとそう。
あの人と同じ人間なら、こんなに酷いことが平気で出来るはずはない。
あの人が足の下に血の海を作り、真っ青な顔で男達に抱えられているのも。
私がこうして捕まえられているのも。
ねえ、これは夢でしょう?
目を覚ましたら、きっといつものように貴方の声が聞こえるわよね?
ねぇ、そうだと言って。お願いだから、笑ってセイジュ。
心配ないって。大丈夫だって言って笑ってよセイジュ。
セイジュ……。
「――セイジュ!!」
「……セイジュ!!」
痛みに霞んでいく意識を、その一言が呼び戻した。
泣いている。彼女が……愛しい人が。
呼んでいる。助けを求めている。
「リ……フ……っ」
叫んだ筈の言葉は、力無く口からこぼれ落ちる。
痛みと出血で、目の前は暗く霞んでいた。
意識はくもの糸よりも細く儚く、ぎりぎりのラインで保たれている。
「リ……フ……泣……な、だいじょ……だ……」
「セイジュ!」
「おま……は……オレ……絶対……守……から」
泣かせたくない。
守るんだ。
その想いだけが、今の彼を支えるすべてだった。
「セイジュ!セイジュが死んじゃう……助けて……お願い、彼を助けて!!」
リーフは狂ったように叫ぶ。
すると、長老がその目に異様な輝きをたたえて言った。
「もちろん、巫女様の御言葉なれば、あの者を助けるのに異存はございません。元より、あの者の護衛官としての腕は我らも認めております故に。ですが条件がございます」
「条件……?」
「は。恐れながら巫女様には二度とかようなお戯れをなさいませんように。我らエヴァーグリーンの民一同の願いにございます」
「……」
リーフは唇を噛む。
セイジュには、長老の言葉が聞こえていなかったのだろう。
いや、既に誰の言葉も彼には届いていないのかも知れない。
それほど彼の顔は青ざめ、体からは力が抜けていた。
しかし……。
「それで彼を助けてくれるなら……」
そう、彼女が言いかけた時だった。
「やめろぉぉっ!」
今まで虫の息、というようにぐったりしていたセイジュが、いきなり暴れ出した。
不意を突かれた男のゆるんだ腕を振り払い、セイジュはリーフに向かって走り出す。
「リーフ!」
「セイジュ、だめ!」
重傷なのに動くなんて……!
リーフの悲痛な声がこだまする。
しかしセイジュは構わず突き進んだ。
ここで、自分のためにリーフを犠牲にするくらいなら。
それぐらいなら、いっそこのまま……。
「リーフっっ!!」
「セイジュ!!」
そして、あと数歩。
そう、あともう僅かで互いに手が届く。
そんな時だった。
「セイジュ!」
「リー……」
ドスッ。
セイジュの目が、驚愕に見開かれた。
「……ぁ……リ……」
「あ……あぁぁぁ……」
リーフが声にならない声をあげる。
いやいやをするように首を振るリーフの姿が、真っ赤に染まって……。
それが、セイジュの見た最後の光景だった。
ドサ……ッ……。
セイジュの体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
リーフを抱えていた男が、セイジュの鳩尾の辺りを一突きにしたのだ。
剣から鮮血が飛び散り、リーフの顔に血の斑点を作った。
「セイ……ジュ……?」
「巫女様!」
長老が慌てて駆け寄り、リーフを抱えている男を叱責する。
「この愚か者が!巫女様の御身を汚すとは!」
「も、申し訳ありません。私はセイジュから巫女様をお守りしようと……」
「えぇい、言い訳など聞かぬ!……巫女様、お気を確かに。たかが護衛官一人が命を落としただけのことなれば、巫女様がお気に病むことなど一つもござりません。これは悪い夢にて、お忘れくださりませ……」
言いながら、長老は他の護衛官達に目配せする。
「早う、この男の亡骸を海に投げ捨てろ。巫女様の御目に汚らわしい物を晒しておくでない。早う!」
「は、はいっ」
「セイジュ……セイジュ……」
うわごとのように繰り返すリーフの目は、既に何も映してはいなかった。
長老はリーフの様子を見やり、ホッと安堵の息を吐く。
「どうやら、加護の力は失われておらぬようだな。……巫女様。お忘れ下さりませ。これは悪い夢にてござりますれば。お忘れ下さりませ。何もなかったのです。何も……」
そう繰り返す長老に、虚ろな目を移すリーフ。
その視界の中に、無造作に引きずられていくセイジュの亡骸が映った。
崖の縁に立ち、セイジュの遺体を持った男達は海に向かって反動を付けている。
それが何を意味するか悟ったとき、リーフは再び叫んだ。
「やめてぇぇぇ!!!」
しかし、それは意味を成さなかった。
「やれ!」
冷酷な長老の一言で。
「セイジューーーーっっっ!!」
リーフの悲鳴が響き渡る中、セイジュの遺体は崖から投げ捨てられた。
その瞬間、崖からもの凄い突風が吹き上げたが、セイジュの体がゆっくりと海面に落ちていく。
忌むべき者の遺体など、埋葬すら許さない。
冷たい海の底に沈み、永遠にさまようがいい。
そんな、民達の冷たい仕打ちであった。
「あ……あ、あぁ……」
がくん、とリーフの体から力が抜け落ちた。
体に回された護衛官の腕に支えられながら、リーフは呟く。
「私のせいよ……私が……あの人を殺した……セイジュ……セイジュ……」
「巫女様。お忘れくださりませ。かような下賤の者のことなどお気にかける必要もござりません。お忘れ下さりませ。すべては夢の中の出来事なれば、目覚めればすべて……」
「……ぃ……」
ふと、リーフが呟いた。
「巫女様?」
長老が、いぶかしげにリーフを見る。
リーフは、バッと顔を上げ、長老とそこにいる護衛官すべてを睨み付けた。
「許さない……私はあなた達を許さない……!!」
その目は、既に正気を保っていなかった。
リーフは、詔を詠唱し始める。
それは誰に教わることもなく彼女が知っている、巫女としての力。
春の巫女である彼女だけが唱えることの出来る、クロノアの力。
《我が身に宿りし春の女神よ、今ここに我、汝に願う。春の巫女の名に於いて、我が身に宿りし春の力よ。緑燃やす命の息吹よ。その力、哀れなる汝が子らの元より永遠の眠りにつかせん……》
「!!や、やめろ!おい!そいつの口をふさげ!!」
リーフのやろうとしていることを知った長老が、今までの口調を一変させ叫ぶ。
「巫女の力の解放など!……そんなことをすれば、お前とて生きてはおられんのだぞ!」
かまわない。
セイジュのいない世界など。
あの人のいない人生など、考えられなかった。
ただ、あの人のそばにいたいだけ。
それさえも巫女である身には許されないのなら。
……巫女の力など、最初から望んだことなどなかったのに。
《ル・ディス・イリス……我が身に宿りし春の力よ。今ここに汝が力示せ!》
「やめろ!!」
護衛官が、リーフの口を塞ぐ。
しかし、詔は依然として紡がれていく。
エヴァーグリーンを守る春の巫女。
その、クロノアの加護によって守られた力は、誰一人干渉できる術のない真実の力であった。
……彼らが捕らえ、飼い殺しのように扱ってきた巫女は、それほどの力を持っていたのだ。
《我、女神クロノアの名の下に、愚かなる民に冬の静寂を与えん!》
詔が終わった瞬間だった。
リーフの体が金色の光に包まれ、その場にいた者はすべて目を焼かれてうずくまる。
「がっ……」
「目が……目が……ぁぁ!」
だから彼らは見ることが出来なかった。
護衛官の腕から逃れたリーフが、最後の力を振り絞って、崖の方へと歩み寄っていくのを。
「セイジュ……待ってて、私も、今すぐ……に……!」
頭上では、今までの晴れた空が嘘のように、にわかにかき曇り、刺すような冷気が異常を伝えてくる。
「こ、これは……一体……」
「春の女神の加護は、本来冬の凍てつく土地であるはずのエヴァーグリーンを常春の地として存在させている。私は、その力を放棄した。もう、冬の神の力を抑える、春の女神の力は何処にも存在しない」
「馬鹿な!そんなことをすれば貴様も……!」
「そう……女神の力によって存在するのは、巫女である私も同じ。巫女としての資格を持ったまま、その力を放棄すれば……私の命は、もう尽きる」
誰に教わったわけでもない知識。
けれど、それは彼女が生まれたその瞬間から知っていた、巫女としての知識だった。
「もう二度と……この地が目覚めることはない。あなた達は死ぬワケじゃない。ただ、冬の神の抱擁によって、永遠の眠りにつくだけ。……転生すら許されない魂の牢獄で、永遠にさまよい続けるがいい。……私を、セイジュを苦しめた報いを受けるのよ」
「き、貴様……!!」
「やっと本性を見せてくれたわね。あなた方にとって私は道具だったのでしょう?まさか、道具に反抗されるとは思ってなかったのよね。……私にだって感情はある。私は……私は道具なんかじゃないわ!!」
リーフはそう言って、崖に歩み寄った。そして跪く。
「セイジュ……あなたの後を追って海に飛び込んだりしないわ。私は待ってる。ここで、ずっと、貴方が転生して再び会いに来てくれるのを、ずっと待ってるから。……ねぇ、だから忘れないで。エメラルドグリーンの海を見下ろすこの崖で、誓いの口づけを交わした男女は、幸せになれるのよ……」
跪いたリーフの足の先が、ゆっくりと石化していく。
「待ってるから……セイジュ……」
涙が一粒こぼれ落ち……大地で弾けると。
リーフは、完全な石像へと変化した。
そこにあるのは、すでに春の巫女ではなく。
春の巫女の石像。その中に巫女の力は……ない。
そして冬の神の息吹が周囲を吹き始める。
荒れ狂う風に、そこにいたすべての人間が海へと飛ばされ、落ちていった。
断末魔の声が響く中……。
この後――エヴァーグリーンは、一千年の永き眠りにつくことになる……。
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