第1話
「……」
その若者は、額に汗を光らせながら、ただ黙々と歩いていた。
目の前に続く、なだらかな登り道。
若者の左手には崖があり、その向こうには穏やかに輝く海が広がっている。
若者は、少し荒くなってきた息を整えるために立ち止まり、額を流れる汗を拭うと、ちらりとその海に目をやった。
エメラルド・グリーンに輝く静かな海。
凪いだ風は静かに海面を吹き抜け、若者のいる崖の道にも潮の香りを運んでくる。
約一千年ぶりになる潮の香りと、降り注ぐ暖かな陽光を、目を閉じて暫くの間味わうと、若者は再び、上を目指して歩き始めた。
「リーフ……」
眼下に広がる海と同じ、緑の美しい瞳をした彼女は、春の女神に祝福され、生まれてきた巫女だった。
春の巫女は汚れなき乙女でいる間、女神クロノアの力を宿し、その村に幸せと繁栄をもたらすという。
ゆえに、生まれてから一度も外出を許されず、誰に会うこともないように、外界と完全に隔絶された場所で彼女は暮らしていた。
目に見えるものは窓の外の青空と大地。
友と呼べるものは小さな動物達。
外を知らず、望むことも許されず、神殿で村人の尊敬と畏怖を一身に集めながらも、その実ただの人形でしかなかった彼女は、生まれてから一度も笑顔を見せたことのない、まるで能面のような表情の少女であった。
《セイジュ……》
ふと、彼の名を呼ぶ少女の声が聞こえた。
暖かく、柔らかく、庇護を求めるように、癒しを与えるように、彼女は彼をそう呼んだ。
《セイジュ……愛してる……ずっと、ずっと愛してる……》
「……っ…リーフっ……」
若者――かつて春の巫女リーフの護衛官であったセイジュは、辛そうに顔を歪め、目を閉じる。
「行くから……すぐに、迎えに行く…から……」
二人の逢瀬は、いつも高い窓越しであった。
護衛官といいながら若年の身ゆえに直接リーフに会うことは許されなかったセイジュと、高い壁に囲まれた部屋で暮らす囚われの巫女リーフは、神の瞬きほどの偶然と悪戯によって巡り会った。
出会った瞬間、彼女だと、思った。
それは何の根拠もない、しかし空が空で、海が海であることほどはっきりとした確信。
ほんの数秒にも満たないその間に、二人は激しく深い恋に落ちたのだった――。
二人が愛し合うようになってから暫くして、二人の関係は都の人間の知るところとなった。
当然、二人の恋は巫女の力が失われることを怖れた周囲の人間から猛烈な反対を受ける。
それでも二人の心を変えることが出来ないと知った都の人間は、二人の仲を引き裂くため、彼女を岬の塔に幽閉した。
彼らにとってリーフは、一人の人間である前に、村に繁栄をもたらす為の道具であったから。
彼女自身の幸せなど、彼らにとっては夕食のメニューほども興味を持たない《戯れ言》でしかなかった。
巫女はただ巫女であればいい。その力を宿し、いつか衰え力を失うまで、巫女であり続ければ、それでいい。
都の人間は、誰もがそう思い、それを少しも疑うことのない者達ばかりだった。
今までよりもずっと厳しい監視下に置かれ、塔という名の牢獄に囚われたリーフ。
彼女はセイジュが現れるまでの唯一の友であった一羽の鳩に、一つの碧玉を託す。
助けて欲しい――迎えに来て――ずっと、ずっと、待っているから……。
碧玉に映し出された彼女は、そう言って彼に訴える。
《岬の先で、誓いを結びましょう……》
リーフはそう言って微笑んだ。
《エメラルドブルーに輝く海を見下ろす岬の端で、誓いのキスを交わした男女は永遠の幸せを約束されるのですって。だから、誓いを結びましょう。私たちが永遠に一緒にいられるように――》
汚れのない身でいなければならない巫女が口づけを交わせば、それは巫女の資格を失うことを意味する。
そうなれば、彼女はもう春の女神の巫女として囚われ続ける理由が無くなる。
セイジュは即断した。
『春の巫女を――リーフを奪って都から逃げる。もう二度と、誰にも彼女を犠牲にさせやしない』
それが、悲劇の始まりになるとも知らずに……。
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