第三十八話 ケルヌンノスの住人たち

 血も凍るような俺の嗄れ声だが、盲目のエステルは翡翠の瞳を俺の方に向け、可憐に微笑む。


「あ、こんばんは、マノさん」


 視点の曖昧な笑顔だが、やはり何度見ても、娼婦とは思えないエステルだ。

 そんな楚々とした少女が、俺に頭を下げた。


「いつもわたしを見守っていて下さって、ありがとうございます」

「気ニ、スルナ……」


 俺は短く答えた。

 彼女が両手を口に当て、伏し目がちに笑う。


「マノさんのお顔は見えないけれど、すごく頼れる、強い雰囲気は分かります。何だか、すごく嬉しい」


 腐った体はエステルに何の反応も示さないが、やはり可愛い少女に頼られるというのは、悪い気はしない。

 自然と意気も高揚するというものだ。


 そこでエステルの顔に、ふっと薄く陰が差した。


「あ、お気に障ったらごめんなさい。こういう雰囲気の方にお会いしたのは、ケルヌンノス以来なので、つい……」


 俺は気が付いた。


 そうだ。

 エステルも、ケルヌンノスの出身だった。

 しかし『カルヴァリオ』のこと、それに第三小隊のことは、エステルの境遇と深く結びついているはずだ。

 不用意な聞き方は、エステルの心の傷を抉ることになりかねない。

 だが俺の内側で、腐敗ガスのように溜まった疑問を抑えきれないのも、また事実だ。

 逡巡した挙句、俺は短く直截にエステルに問う。


「“カルヴァリオ”、トイウ男、知ッテ、イル、カ……」

「えっ?」


 ソファーの上で、エステルの華奢な肩がぴくんと揺れた。

 曖昧な翡翠の瞳が、困惑の陰に覆われてゆく。

 幾瞬きかの沈黙を容れて、エステルがためらいがちに口を開いた。


「あの、ケルヌンノスの街にいた兵隊さんたちの隊長、ですよね……?」


 エステルの息が、浅く乱れている。

 やはりエステルには辛く苦しい記憶と結びつく名前のようだ。

 聞いてしまった俺は、縮んだ心臓を握り潰すような悔悟の念に襲われた。

 それでもエステルは、スッと顔を上げる。


「峠の戦いで亡くなったらしい、ということしか、わたしには……。父はケルヌンノスの軍隊ともお付き合いがありましたが、街が焼けてしばらくして、父は亡くなりましたので。わたしは商売のことには、あまり触れていませんでしたから……」


 気丈に背筋を伸ばすエステルの答えは、恐らく誠実に綴られている。

 彼女は豪商の娘だった。

 何不自由なく、このサロンを飾る絵に描かれた屋敷に暮らす、深窓の令嬢だったはずだ。

 豪商マイリンクが大切な娘を商売という俗事、それも軍隊相手の取引に関わらせなかったことは、想像に難くない。

 期待外れではない、と言うと嘘にはなるが、これ以上エステルを見えない傷で苦しめるのは本意ではない。


「アリ、ガト、ウ……」


 俺が掠れ声でエステルに礼を述べたのと同時に、玄関の扉がノックされた。

 鳴った回数は六回。


 エステルがソファーから立ち上がった。

 応接セットの間を器用にすり抜けて、応対に立った彼女は、自ら玄関の扉を開く。

 そこにいたのは、やはりあの眼鏡の若者、商人カイファ=ミザールだ。


 エステルとカイファ、熱く若々しい抱擁を交わした二人だったが、エステルから何事か告げられたカイファが、俺に目を向けてきた。


 静かな笑みで会釈をした彼の目は、眼鏡の奥で真摯な光を宿している。


 カイファがエステルに二、三言何か言うと、彼女はこくりとうなずいて二階へと戻っていった。

 どうやら先に行っていて、ということらしい。


 残ったカイファが、俺の方へとおもむろに歩み寄ってきた。

 そしてテーブルを挟んだ俺の向かいに座ると、静謐に満ちた眼差しを俺の崩れた顔へと注ぐ。


「マノさん、カルヴァリオ隊長のことを知りたいんですか……?」

「知ッテ、イル、ノカ……?」


 意外だ。

 思わず聞き返した俺に、カイファが真剣な面持ちを保ったまま、小さくうなずく。


「ケルヌンノス駐屯の山岳猟兵隊は、ミザール商会とも取引があったから。エステルはよく知らないかも知れないけれど、僕は知っています。トバル=ルッカヌス=カルヴァリオ隊長のこと……」

「『ト、バル=ルッカ、ヌス=カル、ヴァリ、オ』……!」


 カイファが口にした名前が、俺の口から繰り返される。

 そして次の刹那、煌めく星屑の砂嵐が、俺の視界を覆い尽した。


 その煌めく灰色の背景に映るのは、一団の男たちだ。


 軽い革鎧を着込んだ彼らが帯びるのは、小ぶりの石弓。

 それに戦鎚やククリナイフなど、狭い場所での戦いに適した短い武器が、彼らの得物だ。

 全員が同じ茶色のマントで身を包み、フードを目深に被っている。

 これは山林での戦闘を得意とする兵団の装備だ。

 

 そして彼らの襟元には、七宝の部隊章がきらりと光る。

 その部隊章の意匠は、濃緑の地に、三つの星と白い手。

 俺の部隊章とよく似ているが、山吹の盾の意匠はない。


 そんな幻視を脳裏に映す俺に、カイファが沈んだ瞳で問う。


「あなたは、僕やマイスタさんが知っている『マノ大隊長』とは別人のようですが、カルヴァリオ隊長とはどういうご関係ですか?」


 探るような翡翠の視線と、深慮の漂う口調。

 とても紳士的な物腰、好感は持てる青年だ。

 だがカイファが本当に聞きたい答えは、俺では与えられないだろう。

 俺は、何も知らないのだから。

 カルヴァリオのことも、俺自身のことさえも。


「分カラ、ナイ……。ダガ、知ラ、ナクテ、ハ、ナラナ、イ……」

「そうですか……」


 カイファが顔を伏せるようにして、前屈みにうつむく。

 その背中や肩には、何か深い迷いが渦巻くようだ。


 しばらくの間、そのまま思案に暮れていた風のカイファだったが、やがて顔を上げた。

 眼鏡越しに俺を正視する目は、決意と覚悟に満ちた確固たる光を湛えている。

 口元を結んだカイファが、わずかにうなずく。


「分かりました。お話します。カルヴァリオ隊長のこと、それに……」


 彼の表情が、何故か悔悟に歪む。


「あの峠の戦いの原因も。それは僕たちミザール商会の不始末、でもありますから……」

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