第三十七話 代償の意味

 再び独りになった小部屋の中で、俺は今さらの驚愕と動揺に身を震わせる。


 マルーグ峠の戦いの『戦友』だという、元第二中隊軍人のエノスとの思いがけない対話。

 長い話ではなかったはずなのに、俺に与えたものが大き過ぎた。


 ちぎれた左腕。

 “動く死体”を始末しようという『第零局ダアト』の存在。

 そして何よりも、俺が今まで自分だと思ってきた『マノ大尉』は、本当は俺ではない、という証言。


 俺がマノでないのなら、俺は一体誰なのか?

 何もかもが振り出しに戻されたような、うつろな気分に襲われる。

 そんな俺の脳裏に響くのが、エノスから聞かされた一つの名前。


 ――カルヴァリオ――


 だが、どれだけこの名前を腐った脳内に反芻させても、何も見えてはこない。

 恐らくは、この『カルヴァリオ』という姓だけでは、俺の記憶の封印は解かれないのだ。


 『カルヴァリオ』とは何者なのか、それを知る者を探し出して、聞き出さなくてはならない。

 それが分かったとき、俺は俺が誰なのか、知ることになるのだろう。

 パペッタの言う『贖罪』の真実も、俺の前に立ち現れてくるかも知れない。


 だが目下の問題は、俺のちぎれた左腕だ。

 いや正確には、そのちぎれた腕の意味、というべきだろう。

 これは俺の残り時間が目に見える形で表われた、いわば運命の督促、のようなものだ。

 次に俺から去るのは、腕なのか、足なのか。

 俺に許された猶予は、俺が思っている以上に短いのかも知れない。


 その一方で、ふと俺は思った。


 このちぎれた腕を見たら、女医ハーネマンや聖騎士ユディートは、どんな顔をするだろう?

 少しは心配してくれるだろうか?


 姉妹のように仲のいい二人の顔が、腐った脳裏をよぎる。

 職務に忠実なハーネマンのことだ。

 心配はしてくれても、言葉や表情には出ないかも知れない。

 ユディートに至っては、『もっと自分を大事にしろ』とばかりに説教を始めかねない。


 何だか物悲しいおかしさが、俺の緩んだ気管から空気を押し上げてくる。

 我ながら、暢気なものだ。

 俺の『贖罪』はいつ、どんな顛末で終わるのか?

 体がなくなるまでに決着が付くのか?

 俺は本当の体に戻れるのか?


 そんなことをぐるぐると思い巡らせるうちに、陽はとっぷりと暮れてしまっていた。


 斜陽の残滓がかろうじて明るさを保つ部屋に、独り黄昏ていた俺。


 ぼわぼわと耳鳴りが煩い俺の鼓膜に、この日三度目のノックの音が響いた。

 続けて聞こえたのは、マイスタの気のいい声だ。


「マノさん、いるかい? ちょっと開けるよ」

「チョッ、ト、待テ……」


 俺は慌てて床の上の左腕をベッドの下に蹴り入れ、マントを整えて左肩を覆った。


「待タセ、タ……」

「ごめんねー、マノさん」


 即座に扉が開き、マイスタが顔を覗かせた。

 戸口に立ったままのマイスタは、気さくな笑顔に、どこか済まなさそうな色を浮かべている。

 幸い、無くなった俺の左腕には気付いていないようだ。

 いきなりマイスタをびっくりさせるのは気が引ける。

 少しばかり安堵した俺に、マイスタが言った。


「済まないんだけど、わしは今から娼館組合の寄り合いに行ってくるから、ちょっとサロンで留守番を頼めるかなー?」


 白鷺庵の留守番は、これまで何度もやってきていることで、特に何の問題もない。

 常連連中も、もう俺の容姿や臭いは、慣れてしまっているようだ。


 俺はゆらゆらとベッドの縁から腰を上げ、マイスタの後について小部屋を出た。

 なじみのサロンへと向かいつつ、俺は思い出した。


 そういえばあのエノスは、マイスタがケルヌンノス出身だと言っていた。

 もしかしたら、彼は知っているかも知れない。

 『カルヴァリオ』という第三中隊長のことを。

 だが一度も振り向かず、立ち止りもしないマイスタに、声を掛ける隙など微塵もない。

 あれよと言う間もなく、マイスタと俺は、車輪型のシャンデリアが天井から照らすサロンへと踏み入った。


 と、振り向いたマイスタが、いつもの気さくな笑顔を俺に向けてくる。


「じゃあ悪いけれど、後はよろしく頼むねー。特別な予約はないから、お客の顔ぶれは、たぶんいつもと変わらないと思うよー。済まんねえー」


 それだけ言い残したマイスタ。

 安心しきった様子で、彼は白鷺庵の玄関から宵闇の街路へと出ていってしまい、結局、マイスタにカルヴァリオのことを聞く機会は得られなかった。

 マイスタも忙しい人だから、まあ仕方がない。


 いつものように、宵のサロンに独り残された俺は、ソファーに座り、いつものように客を待つ。

 連れ込み部屋に憩う男女と、ほぼ毎日決まった時間に訪ねてくる一人の青年だ。


 幸か不幸か、あのアンフォラの執拗で不愉快な顔は、ずっと目にしていない。

 だがエノスが言い残した話、『アンフォラが“魔術結社中央会議セントラル第零局ダアト”という連中を呼んだ』、というのが妙に引っかかる。

 その知らない組織に俺を始末させよう、とでもいうのだろうか。

 アンフォラが何を企んでいるのか、油断はできない。


 そんなことを考えている間に、俺は白鷺庵を訪ねてくる男女の客を一組、二組と迎え入れ、引き換えに銀貨を受け取る。


 そして三時間か四時間が過ぎた頃。

 この無人のサロンに、二階から一人の少女が降りてきた。

 いつもの扇情的なドレスではなく、温かそうなガウンを着込んだ少女。

 彼女は俺の向かいのテーブルにそっと腰を掛け、両手を下腹部に重ねている。


「エス、テル……」

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