第三十三話 もうひとりの訪問者

 天地さえ砕け散るばかりの苦痛と、呪詛の幻聴。

 俺は頭を抱えて弓なりに仰け反った。

 俺の裏返りかけた眼球に、小部屋の窓が映る。


 窓の外に誰かいる。

 何者かが、俺を見ている……。


 霞む俺の視界がわずかに捉えたのは、何者かの顔だった。

 両手を窓枠にかけて、部屋の外からじっと中を覗き込む、二つの目。

 俺が知っている誰のものとも違う、金緑の瞳……。


 そう思えた瞬間、その目も頭も、スッと幻のように窓の下へと消えた。

 そして入れ替わるように、今日二度目のノックの音が、苦悶と疑念に苛まれる俺の耳に響いた。


 途端に、頭蓋はいましめから解き放たれ、俺はぐらりとベッドの縁から崩れ落ちた。


 左肩から床に崩れ伏し、肩口を激しく打ち付けた俺だが、死んだ体に痛みなどはない。

 しかし、ますます自由の利かなくなったのは確かだ。


 肘を床に着き、転がるように体を持ち上げた俺に、扉の外から聞き慣れた老人の声が聞こえてきた。


「マノさん、いるかい? マノさんに客が来てるんだけど、いいかな?」

「客……? 誰、ダ……?」


 やっとのことで身を起こし、床に正座の状態を保てたのと同時に、マイスタが扉越しにこう答えてきた。


「マノ大尉の旧友だって言うんだけど、案内していいかな?」

「キュウ、ユウ……?」


 俺は思わず聞き返した。

 マノ大尉の旧友を名乗るということは、国軍中央の関係者だろうか。

 もしかしたら、マルーグ峠の戦いの生存者かも知れない。


 しかし、どこでこのマノ大尉のことを聞きつけてきたのか?

 一体どういう関係のある何者なのだろう?

 もしかしたら、窓から一瞬見えた目の持ち主の可能性もある。


 疑問は尽きないが、嫌な予感しかしない。

 だがその『旧友』と会えば、俺が何者なのか、正体がハッキリするかも知れないのだ。


 かくかくと立ち上がった俺は、再びベッドの上に腰を落とした。

 そして覚悟を決め、マイスタに返答する。


「開イテ、イル……」


 すぐに扉が開かれ、こつんこつんという奇妙な足音ともに、一人の男が部屋の中へと踏み入ってきた。

 同時に扉は男の背後で静かに閉じられ、小部屋には俺とその男だけとなった。


「……臭うな」


 男の低く通る第一声。

 

 ベッドの縁に座った俺は、その男を見上げた。

 やつれて青ざめた、痩せた男だ。

 その老け込み、やさぐれた風体からは、実際の年齢は判断できない。

 男は半端に伸びた灰色の前髪の下で、鳶色の目が無気力に俺を見下ろす。


 どうやら、窓の外に見えた目の持ち主ではないようだ。

 その左の目元から顎にかけて、大きな傷跡がある。

 たぶん切創だ。

 襟首にも傷跡が覗いていて、恐らく全身が古傷に覆われていることは、想像に難くない。


 身なりは粗末で、着古したベージュのシャツの上に、色あせた薄手の長衣を着込んでいる。

 よくよく見れば、男の右足はくたびれたブーツ履きだが、左足の脛から下は、接地する先端が球状の木の棒になっている。

 安っぽい義足だ。


 男は俺の顔を見て、酷く眉根を寄せると、忌々しげに首を横に振った。


「あんた、えらい変わりようだな、マノ大隊長さんよう……」


 扉の前に悄然と立ったまま、ぞんざいに二言目を放った男。

 その沈んだ鳶色の目に浮かぶのは、静かな怒りに被せられた、醒め切って極限まで洗い晒された虚しさだ。


 そんな枯れた男が、腐った俺を眺めながらさらに続ける。


「あんな美青年で、第一第二の中隊長、おまけに計画大隊の大隊長まで兼任したあんたが、そんな腐れたようななりになっちまって。父親が嘆くぜ」


 感情を抑え込んだ調子で、うそぶいた男。

 彼は恐らくマノ大尉をよく知っているのだろう。

 だが俺の方は、自分のことはおろか、この男のことも全く記憶にはない。

 目の前のやつれた男に俺がかけられる言葉は、ただ一つだ。


「誰、ダ……?」

「『誰だ』だと?」


 ここまで無表情を貫いた男の目に、朱色の憤激が湧き上がる。

 その眉間に深いしわが寄った次の瞬間、憎悪をたぎらせて歯を剥いた男が、俺に掴みかかってきた。


「あんたら親子のせいで、俺たちはこんな目に遭ったんだろうが!!」


 男の大きく骨ばった両手が、俺の両肩を猛禽のように捕らえた。

 ものすごい握力だ。

 この男も元は軍人だったのだろう。

 爪の伸びた男の指が、マントの上から俺の皮膚にずぶずぶとめり込む。

 当然痛みなどはない。

 だが男に激しく前後に揺さぶられ、俺の首はかくんかくんと定まらない。

 肩甲骨と上腕も、ぐらぐらと緩んでくる。



「あんたのとこの参謀が! くだらねえ私情で! 地元を無視したバカな作戦なんざ立てるから! あんな! あんなことに……!!」


 まさに噛み付くばかりの勢いで、唾を飛ばして俺に食って掛かる男。

 その見開かれた目には、うっすらと涙が滲む。


 だが、まだ俺には男が何を言っているのか、理解ができない。

 ただ男の剣幕と、その陰に漂う痛切な哀しみが、鼓動を忘れた心臓を握り潰してくる。

 突然、ぶちっと何か水っぽいものがちぎれる音が聞こえ、饐えた腐臭が漂った。

 同時に男が、あっとひと声上げて俺から飛びすさる。


「マ、マノ大隊長!? あんた、腕が……!!」


 男の震える指先が、俺の左肩を示した。

 まだくらくらと定まらない視線を、男の指す先を辿らせる。


 腕がない。

 俺の左肩から、腕がもげ落ちていた。

 黄色く糸を引く不潔な腐汁が俺の脇腹をべったりと汚している。

 そして外れた腕は、床の上に転がっている。

 小指の欠けた手がひくつく様は、まるで断末魔の蜘蛛のようだ。

 驚愕と嫌悪感に顔を引き攣らせる男。

 しかし恐怖や怯えを感じさせない辺りは、さすがは元軍人だ。


 とはいえ、やはり俺が誰であれ、屍者だというのがばれるのは、都合が悪い。

 俺は敢えて落胆の空気を全身に漂わせ、がっくりとうなだれて見せる。


「壊、疽ダ……。仕方、ナイ……」

「壊疽……」


 繰り返した男の眼差しに、わずかに同情の色が浮かんだ。

 その男の目が、俺の襟元に留まる。

 七宝の部隊章をまじまじと見る男の表情が、じんわりと崩れてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る